特許コラム
2010年9月 9日 木曜日
中小企業にとって特許とは?
以前、とある研修会に行きました。テーマは中小企業の知財戦略というお話でした。
講師の方は、とある会社の社長で、その経験のなかで中小企業の知財戦略について経営者の観点からお話しておられました。
そのお話は非常に面白く、「経営者として知財に関わった」方ならではの観点は、弁理士にはないものがありました。
そして、その中で
「零細企業やベンチャー企業であれば、多分、訴訟に巻き込まれたらそれだけで会社は潰れてしまうんじゃないか」
とおっしゃっていました。
それはそうかもしれません。
訴訟が起こると、お金が必要なだけではなくて人も必要になります。
そうすると、少なくとも社員一人は特許の対応のために手を取られてしまって、他の仕事がほとんどできなくなってしまいます。
小規模の事業主にとって、一人の人間が訴訟に手を取られて他の仕事ができなくなる、というのは致命的です。
その上に、弁護士費用、弁理士費用等でお金はどんどんと出て行きます。
そうなると、小規模事業主であれば、あっという間に追いつめられるでしょう。
更に怖いのは、以前も書いたように、
「侵害していなくても、侵害訴訟に巻き込まれることはある」
ということです。
つまり、実際は侵害が発生していなくても、特許を持っている人がそのことに納得しなければ、裁判になるし裁判になってしまうと事情の云々関係なく、会社は立ちいかなくなってしまうおそれがあります。
また、自分が持っている特許を侵害している会社があるのを見つけたときでも、訴訟をするお金がない、訴訟に対応する人材がいない、等の理由で訴訟に踏み切れない、という場合もあるでしょう。
そう考えると、零細企業、ベンチャー企業にとっての特許って何だろう? という気持ちになってしまいます。それは、本当に難しい問題です。
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2010年8月31日 火曜日
知財訴訟
知財のことでもめごとが発生すると、最後に到達するのは訴訟です。
別に知財に限らず、もめごとの最後の解決場所は裁判なわけですが。
私は、以前の特許事務所時代に幾つかの訴訟に関わったことがあります。
そこで思ったのは、訴訟というのは大変だ、ということです。
もちろん、だから訴訟をやるな、ということではありません。訴訟は大事な対抗手段です。本当に戦うしかないと思ったときには、訴訟を行わざるを得ないことがあります。
しかし、日本人は基本的に訴訟に慣れていません。皆、基本的には訴訟をしなくてすむなら、やりたくないと思っています。
そんな状態なのに訴訟になるということは、かなり頭に血が上っていることが多いです。
日本人というのは基本的にまじめなので、訴訟になるような場合は、原告被告両方に自分たちなりの主張があって、明確にどっちが悪いと言えないようなケースが多いように思います。
特に大企業同士の特許訴訟ともなれば、一方的にどちらかが悪い場合はほぼない、と言ってもよいのではないでしょうか。そして、それぞれの主張について両方が譲らないからこそ、裁判になっているという。
そのような状況ですから、双方ともに「絶対に勝たなければならない」という使命を感じてしまっているわけです。しかし、実際は必ずどちらかが負けるのです。
本来、裁判(特に知財の裁判)というのは、できるだけ感情を交えず、その場その場での「最大のメリット」を得ることができるように、対応を考えるべきものです。勝つこと、負けることもありますが、「この裁判を行うことによって、ウチの会社はこういうメリットを得た」という状態にまで持ち込むことが裁判の目的と言ってもよいような気がします。
そういう意味では、あまり強く「勝つ」ことばかり考えることは、決してよいことではないように思います。勝訴であっても、「損害賠償額20万円、差止請求は認めない」、なんて判決だったら、会社にとってメリットにならないとも考えられるでしょう。
負けたとしても損害賠償20万円のみだったら実質的には買ったも同然、ということになるでしょう。
しかし、現実はやはり「勝った、負けた」というところにばかり意識が行ってしまい、何のために訴訟をしたのか、というビジネス的クールな目を失っていることが散見されるように思います。自分が関与していない件についての判決等を読んでも、「原告は一体何がやりたかったんだ」と思うようなケースも時折見かけます。
どこまで追い込まれてもクールな自分を失わないというのは、厳しいことだと思います。それは、頭がいいとか知識があるということではなく、精神力の問題でもあると思います。
現実には、そこまでコントロールをして裁判を乗り切れるのは、精神力が極めて強い人か、裁判自体に慣れた人だけ、という気がします。
そういう意味では、弁理士もそういう局面に対応できるよう、精神力を強くすることが極めて重要と言えるのでしょう。
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2010年8月23日 月曜日
相変わらず暑いですね
いったい、どこまでこの暑さが続くのでしょうか。
この暑さにはかなり参ってしまいます。
ということで、なかなか固いブログは書けないので、どうでもいい話を。
特許事務所を開設して何が変わったかというと、「趣味」に使う時間が減ったということです。
こう書くと、忙しくて仕事ばっかりしているから、というように解釈されてしまうかもしれませんが、そういうわけではありません。時間の余裕は、むしろ独立前よりもありますし、やりたいことがあるのなら、なんとかなりそうな感じです。
しかし、駄目です。
「気分転換に」と思って、それまでやっていたような趣味のことをやろうと思っても、なかなか集中できません。
気分的なものかもしれません。
最近は、趣味のことに一所懸命になるような精神的な余裕も無く、時間があったら何かやるよりも寝てしまえ、という気分になりがちです。
独立してからは、一日のスケジュールは忙しくもなく、余裕のある日だったはずなのに、気分的にはかなり疲れている日というのが多いです。
その疲れのせいで「趣味の何かをやって気分転換」というところにつながらない感じですね。「何もせずにぼんやりする時間」が、今は「趣味で気分転換」よりも大切になっている、という感じでもあります。
今は事務所もまだまだこれから、という状態ですから、そうやって英気を養うのも大切なのかもしれません。精神的な疲れは、事務所の仕事の質の低下をもたらす最大の原因になりますから。
で、こんな取りとめもないブログのなかで何が言いたいのかというと、特許以外のことで何か書こうと思っても書くことが思いつかないのは、こういう理由です、ということが言いたいのです。
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2010年8月17日 火曜日
パラメータ特許②
以前、パラメータ特許について書かせて戴きましたが、今回は、その続きを書かせて戴きます。
化学特許について語るときに、特殊パラメータ特許は避けて通れない道です。それは、「特殊パラメータ特許でなければ表現できない発明があるから」です。
しかしながら、現状の特殊パラメータ特許出願の多くは、本来の筋を離れて、
「普通の表現だと権利化が難しいから、特殊パラメータを入れてしまえば、新規性・進歩性がない発明について、新規性・進歩性があるかのように誤魔化せるから権利化しやすくなる」
という意図で使われているように思います。
しかし、こういう発想で出願するのはあまり良くないのでは? と思います。
別にきれいごとで言うのではなくて、本質的に新規性も進歩性も無い発明を誤魔化して権利化しても、それで権利行使はなかなか難しいことのように思います。
裁判では、特許を潰す側も本気です。そして、本気で特許を潰しにかかられたときに、潰せる特許と潰せない特許があり、潰されないようにするための方策を練った特許でなければ、権利行使は難しくなりやすいです。
「ごまかし」でパラメータ特許にすると、多くの場合はどこかに「筋が通らないところ」が発生してしまい、それが無効理由につながってしまうことになります。
つまり、「特殊パラメータ」を導入した技術的意義、効果が得られる作用等の技術事項においてきちんと筋が通っていなければ、後で苦しいことになるのです。したがって、この技術的事項をどこまできっちりと書けるのか、がパラメータ特許の生死を分けるポイントになります。
しかし。
本当に生き延びられる特許に育て上げるところまで、技術的事項をきちんと積み上げることは、並大抵ではできないことです。明細書を作成する時点で理論がきっちりできている場合はいいのですが、ちょっとした思いつきで考えたパラメータ特許について、穴のないストーリーを作り上げることは本当に難しいし、大変なことです。
そこまでやる、という覚悟のもとでパラメータ特許を出願するのであればいいのですが、なかなかそこまで腹をくくってパラメータ特許を出願することはありません。
そこまで腹をくくれないのなら、こちらとしてもどうしても「パラメータ特許はやめておいたほうが・・・」というアドバイスになってしまうわけです。
そうは言っても、現実にはいい加減なパラメータ特許なのにまぐれ当りのように色々なことがうまくいくこともあるので、簡単にパラメータ特許を否定できないのもまた辛いところですが。
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2010年8月 9日 月曜日
「街場のアメリカ論」内田樹
相変わらず暑いし、盆休みシーズンに突入するしで、なかなか特許のことを書く気にはなれないです。
そこで、最近読んだ本についてです。
内田樹氏といえば、もはや人気作家と言ってもよい方ですから、ご存知の方も多いのではないでしょうか。「日本辺境論」や「下流志向」等はかなり売れたという話ですし、書店でもかなり長い間平積みされていました。私もこれまでかなり多く内田氏の本を読んできましたし、ブログもチェックしています。
「街場のアメリカ論」(文春文庫)も、本屋で見ながらなかなか手に取ることはせずに、「いつか読もう」と思っていました。で、昨日本屋に行ったとき、「盆休みに入ったらゆっくり読もう」と思って購入しました。
が、面白いのであっという間に読んでしまい、今朝、読了しました。
いつも思うのですが、内田氏の本を読んでいるとき、私は頭のスイッチを半分くらい切って、言葉に身を委ねている気がします。頭で読んでいるというよりは、体で読んでいるというか。
うまく説明できないですが、そういう感覚になるので、読んでいるときにあまり疲れることがなくてあっという間に読んでしまうというか。そのあたりが人気のある所以ではないでしょうか。こういう「お堅い」テーマの本でも、エンターテインメントの本を読んでいるように楽しく読めてしまいます。
それはともかく。
アメリカという国のことを私は分かっていない、と思います。
特許という仕事をやっていくなかで、アメリカ出願のために米国代理人とやりとりをする機会は非常に多くあるのですが、どうも「アメリカ人の勘どころ」が分からない、という気持ちはなかなか抜けません。
外国特許という意味ではその他の国の特許も扱うのですが、感覚的に「分からない」という気持ちが一番強いのはやはりアメリカです。
そういう色々と「分からない」アメリカのことがこの本で分かったというような簡単なことではないです。読み終わった今もやっぱりアメリカのことは「分からない」ままです。
しかし、そう思いながら読んでいたら、文庫版のためのあとがきで
「(日本人は)アメリカについては、『知性的に理解する』ことについてさえ抑圧が働いているように見えることが問題なのです」
とくるわけです。そこで思い切り膝を打ってしまいました。
このあたり、やはりこの方は凄い人だなぁと。
正直なところ、私はこの本を読みながら、私がアメリカについてどうも理解しきれていないと思っているのと同じように、この著者もアメリカを理解しきれない、と自覚しているのではないか、と思っていたわけです。
「自らが知っている、感じているアメリカ」というものを流れるような文章で知性的に面白く書いているのですが、どこかで「結局アメリカを理解しきれない」と自覚しているんじゃないか、と。
そう思って読んでいたら、最後でこのようにくるわけで、そう来ると「本当にその通り」としか言いようがないわけです。こういう客観視ができるとは、やはり真の意味で知性的な方だなぁと感心してしまいました。そして、こういう内容の本のまえがきとあとがきに、日本人のアメリカに対する視線に関する密度の濃い文章を持ってくるところも。
本文は延々とアメリカについて書かれた本なのに、まえがきとあとがきの内容だけで「日本について書かれた本」になってしまうという。
この本においてアメリカについて書かれたことのディティールについて、誤りはあるかもしれないし、そこを指摘する人もいるのかもしれません。
しかし、そんなことでこの本の価値は損なわれることはないように思います。アメリカについて自分のほうが詳しい、という人であっても、結局内田氏が指摘しているようなことは書けなかったわけですから。
何にせよ、そんな堅苦しい本ではないですし、読んで損のない本であるように思いました。
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