特許コラム
2010年10月13日 水曜日
パオロ・マッツァリーノ
「13歳からの反社会学」(パオロ・マッツァリーノ著 角川書店)を非常に楽しく読みました。
パオロ・マッツァリーノってどこの国の人だとか、どういう人だとかいうのは、私としても簡単には説明できないので(というか、これをここで簡単に説明してしまうと、非常につまらないので)、興味のある方は自分で調べて下さい。この本の後ろの著者紹介を読まれるといいのではないでしょうか。
で、この著者なのですが、とぼけた振りをしていますが、実は極めて「常識人」だな、と思います。そして、それはこういった社会学的な本においては画期的なことかもしれません。
それの何が珍しいかというと、こういった常識のあるまっとうな40歳の「冷静な普通の大人」が本を出すということは、しばらく前まではなかったこと、という気がするのです。
これまで本を出す人、特にこういう社会学的な本を出す人というのは、大学教授であったり、マスコミ系ジャーナリストであったりするわけであって、これらの人はなんだかんだいって、一般社会人から隔絶された世界に生きる特殊な人であり、普通に生きた常識人に属する人ではないでしょう。
もちろん、それがいけないというわけではないです。世の中にはそういう人もいないとバランスが取れないわけですから。
普通の常識人というべき「大人」である40歳前後の人は日々の暮らしに忙しいし、本を出すようなツテも持たないでしょう。自分自身、自分が考えたことを実行することに精一杯で、それを本という形にまとめるヒマもないでしょう。
でも、やはり、現代の普通の常識人が何を考えているのか、普通に生きている「常識的な大人」が到達するような「正しさ」とはどんなものか、ということはどこかで誰かが一度、まとめておくべきことのような気がするのです。世の中で発表される膨大な意見に「常識的な普通の大人」の意見が存在しないのはやはりおかしなことでしょう。
それをきちんとやったのが、パオロ・マッツォリーニ氏の諸作、という気がします。
「現実の世の中には、完璧な正しさなど存在しません。正しさはいつでも中途半端」(276頁)という言葉がこの本にあります。
それは、まっとうに生きて40歳になった人なら、ほぼ全員が頷くことではないでしょうか。
結局、世の中を作り上げてきたのは、こういう割り切りの中で自分がやるべきことを一つ一つ積み上げてきた人たちなのであって、「理念」よりも「実践」に重きを置いたからこそ、日本という国もここまで発展したということではないでしょうか。
そして、そういう人が考える「常識的」な「論理」に照らし合わせてみると、世の中は案外違って見えますよ、と。
私だって一応はまっとうに生きてきた(つもりの)40歳過ぎの男です。そういう意味では、この本に書かれていることは頷くことが多かったです。
この本で書かれていることは、「同じことを漠然と思っている人は他にもいるかもしれないこと」かもしれません。
しかし、裏づけとなるデータを緻密に調べたうえで、感情ではなく論理で社会学の陥りやすい罠を指摘し、それをここまで読みやすい文章で分かりやすく書いた人は今まで誰もいなかったと思います。そして、それは画期的なことではないか、と思います。
こういう本が出たことで、もっと社会学というものが盛り上がれば……とも思います。
私は、社会学系の本を読むのが好きですし、社会学者のなかにも極めて優秀な方がおられると思っているので、是非、もっと「社会学」という学問の本質についての議論が盛り上がったらいいのに、と思ったりもします。
ちなみに、同じ著者による「反社会学講座」「続・反社会学講座」(いずれもちくま文庫)もお勧めです。
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2010年10月12日 火曜日
商標の仕事
弊所はもともと特許をメインとした事務所で、特に化学分野の特許をメインとしていることは、何度も書かせていただいたとおりです。
独立するまでの間、商標に関しては、これまではあまり扱ったことがありませんでした。
もちろん、弁理士試験受験時にちゃんと勉強しましたし、企業に勤務している頃は、商標担当の方から商標についてお話を聞かせてもらうことも多くありました。
そんな私ですが、独立してからは商標についてご相談を戴くことがあります。
そして、改めて商標について勉強をして、いくらか仕事をして思うのは、「商標というのは大事だなぁ」ということです。
特許も大事ではあるのですが、反面、作戦が非常に重要になります。「何でもいいから出しておけ」みたいな発想では、たまに大失敗してしまうことがありますし、ノウハウとして隠しておくべきことは、出願しないほうがよい場合もあります。
しかし、商標に関しては、実際に使用するつもりなら、基本的には「何でもいいから出しておけ」という発想が必要かもしれない、と感じています。妙な作戦を考えるなら、それより先に出願しろ、という面もありますね(もちろん商標調査で「絶対に通らない」ものではないことを確認したうえで、という前提ですが)。
また、商標の発想は特許とはかなり違うので、これまで特許の世界にどっぷりとつかってきた私にとっては、非常に新鮮に思えます。
このブログの最近の流れとか、私が読んだ本を見ていただければ分かるように、私は最近、人文科学系や社会科学系のことに興味が強くなってきています。
そういう私には、「商標」の仕事を通じて見える色々なことが、いちいち面白くて、今は興味津々といったところです。
やはり、「特許」の仕事を通じて見えてくることと、「商標」の仕事を通じて見えてくることとは、大きく違っています。それだけに、その両方を見ることで、視野が広がる部分があるような気がします。
というわけで、弊所では、特許だけではなく商標の仕事も扱っておりますので、ご遠慮なくご相談下さい。
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2010年10月 7日 木曜日
弁理士と競争原理
弁理士、特に平成14年度の弁理士試験制度改革が始まる前に資格を取得した弁理士は、皆、最近の制度改革について何か思うところがあるはずです。
別に、制度改革前の弁理士が全員素晴らしい仕事をしていて、絶対的に正しかったと思うわけではありません。
私も、企業の知財部門で特許の仕事を始めた頃(平成7年くらいです)に、きちんとした仕事をしてくれない弁理士に悩まされたことはありましたし、文句を言いたくなるような弁理士の方もおられました。
だから、「弁理士制度改革」をやることは別に構わなかったと思います。当時としては必要なことだった、とも思います。
しかし、この「この弁理士制度改革」が成功だったのか失敗だったのか、ということの充分な検証が現時点でも全くなされていない、という気がします。試験制度が変わったのが平成14年度から。そして、今が平成22年。いくらなんでも、何か検証が必要なだけの時間は流れたでしょう。失敗であったのなら方針転換も必要でしょうし。
それなのに、「本当にこの改革は成功だったのか」という問いかけもその問いかけへの回答もなく、どんどん弁理士制度が変わっていく、ということについて「どういうこと?」という気持ちです。
試験制度が変わった後に合格された弁理士の方にも優秀な方は沢山おられるし、それを否定する気は全くありません。単純に制度改革が失敗だった、と断言する気もありません。
しかし、弁理士制度改革のときには、「弁理士の数を増やして特許業界にも競争原理を働かせる」というようなことを言われていたように記憶しています。では果たして、現在の特許業界に「競争原理」は働いているのか? ということを考えると、甚だ疑問と思います。
現在、弁理士試験に合格したものの、就職先が見つからない人が多くなったと聞きます。そういう人は競争にさえ参加させてもらっていないわけです。更に、運よく就職できても、一部では特許事務所での弁理士の待遇が悪くなっているという噂も聞きます。
そう考えると、結局、需要のないところに供給を増やしただけ、という気がします。そのなかで、弱い者が割を食っているだけ、という状況のようにも思います。
更に言うなら、「数を増やしたら競争原理が働く」というほど、世の中は簡単ではないし、競争が生じたら能力の高い人が生き残るわけでもなく、商売人として長けた人が生き残るとも思います。かえって、弁理士としての能力が高い人が淘汰されてしまうんじゃないか、という気もします。
更に言うなら、「数を増やしたら競争原理が働く」というほど、世の中は簡単ではないし、競争が生じたら能力の高い人が生き残るわけでもなく、商売人として長けた人が生き残るとも思います。かえって、弁理士としての能力が高い人が淘汰されてしまうんじゃないか、という気もします。
そもそも、この業界では弁理士試験に合格したから仕事ができる、というわけではなくて、現実の仕事では実務経験のほうが重要になります。
「実務経験を通じた知識」に触れるチャンスさえ貰えない弁理士が多く発生しているのなら、そういう人は「弁理士試験合格に使った労力を他のことに使ったほうがよかった」と言わざるを得ません。
色々と悲観的なことを書きましたが、そうは言っても本当に優秀な弁理士の方であればまだまだチャンスは沢山あると思います。
ただ、これから弁理士を目指す方には、
「この先の弁理士人生、ぼんやりしていたら誰も助けてくれないから、力をつけるためには自分で自分の道を切り開いて行って下さい」
と申し上げたいです。
投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL
2010年10月 1日 金曜日
幽霊はいるのか?
というタイトルですが、特許ブログです。決してオカルトではありません。
このブログでは何度か「理系の論理性」と「文系の論理性」は違うということを書きました。その辺の話を少し掘り下げてみようかと思い、一つの例として「幽霊はいるのか?」という問いを考えてみたいと思います。
よく、「幽霊はいるのか?」という問いに対して
「幽霊はいない。だって、幽霊なんて科学的に証明できないから」
と言う人がいます。
この論理、理系的か文系的か、どっちだと思いますか。
私はこういう発想こそ、「文系的」なものだと思います。
なぜか?
それは、上の答えには、
「世の中のすべてのことは科学的に証明できる」
という前提があるからです。前提をもとにして、その前提にあてはまるかどうかで結論を導くという考え方(演繹法的とでも申しましょうか)は、文系的です。
では、理系的な発想は何かというと、
「幽霊が存在することを確定づけるデータが存在しないから、「幽霊は存在する」と断言することはできない」
といった感じでしょうか。こちらは帰納法的ですね。
理系の人というのは、実際に実験をしている人たちですから、世の中の科学的理論と言われるものはすべてが仮説にすぎず、理論に反する実験データが出てくれば、理論のほうが崩れてしまう、ということを知っています。
だから、簡単に「幽霊は存在しない」などと断言することもできません。せいぜいが、「幽霊は存在しない確率が極めて高い」という表現にとどまることでしょう。
そもそも、このような発想に基づく限りは、「○○は存在しない」ことを証明するのは不可能に近くなってしまいます。
一応お断りしますが、私は「文系の論理性」と「理系の論理性」のどちらかが正しくてどちらかが間違っている、などというつもりはありません。
ただ、「ちゃんとした弁理士」でありたいなら、両方の論理性についてきちんと習得しておくことが必要だと思っているだけです。
なにしろ、法律について論じるときは、「法律に規定されたこと」という前提に基づいて理論を構築しなければならないのですから、「文系的な論理性」がなければ、審査官、裁判官という人たちを納得させられるような主張はできません。
一方では、「理系的な発想」がなければ、そもそも発明の把握がちゃんとできなくなってしまうでしょう。
特許業界の人は理系出身の方が多いですから、どちらかといえば「文系の論理性」に弱い人が多いように思います。
私自身も、弁理士試験の受験生時代は、この「文系の論理性」の意味が理解できず、苦労したことを覚えています。ある時に突然、
「そうか法律における論理性というのはこういう前提で考えるのか」
と分かって、そこから後は勉強がスムーズに進みました。
反対に、弁護士の方は「理系の論理性」に馴染みのない方が多いように思います。研究をしたことのない方がほとんどでしょうから、そうなるのが当然でしょう。しかし、知財訴訟を行う際には、この「理系の論理性」をないがしろにはできないはずです。
いずれにしても「論理的に正しい」って何なのか? ということは非常に難しいことであり、そう簡単に結論づけられないことであるように思います。
投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL
2010年9月27日 月曜日
九マイルは遠すぎる
これまでここでは触れませんでしたが、私は弁理士試験の勉強を始める前くらいまでは推理小説マニアでした。
が、社会人になって忙しくなってきたことと、新作が推理小説でなく「ミステリー」と呼ばれるものに変わり、ベストセラー小説の多くが「ミステリー」になるようになった頃から、私自身の興味が極端に薄れてしまい、ほとんど推理小説を読まなくなってしまいました。
結局、最近の「ミステリー」が私の好きだった「推理小説」とは別のものに変わって、興味がなくなった、ということかもしれません。
ですが、昔に買ったまま読まずにほうっておいた本が大量にあり、最近、たまにそういう本を読んでいます。そんな流れで、最近読んだのが「九マイルは遠すぎる」(ハリイ・ケメルマン、早川文庫)という短編集です。
タイトルを書いても知っている人、ほとんどいないでしょう。しかし、「推理小説」のファンの間では名作と呼ばれている作品です。
本を見ると、アメリカの出版が1967年、日本の文庫初版が昭和51年ですから、ずいぶん古い作品です。
それだけに、私が好きだった頃の「推理小説」の香りを強く感じさせるものでした。なんだか懐かしい気持ちになって、数日に短編一つくらいのペースでゆっくり読んでいます。
表題作は「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない。ましてや雨の中となるとなおさらだ。」という一つの文章のみから殺人事件を解決する、という話です。そういう話だということはさんざん聞いていたので、実際に読んでも新鮮に感じず残念でした。
まあ、それは私が悪いのであって、知識ゼロの状態で読みたかったと思うのみです。
でも、その他の短編は素直に面白かったです。
それにしても、ここまで論理性のみを表に出した作品は「推理小説」としても珍しいなぁ、と思います。ウェットなところが欠片もなくて、どこまでもドライなのです。人が死んだという話でも、淡々としていて「推理」に関係のない要素は一切入り込みません。
それが非常に小気味よく、安心して楽しく論理の世界に身を任せられるわけです。この辺が昔の「推理小説」だなぁと。
と、これだけだとただの感想になるので、関係のないところで思ったことを少し。
ここで探偵役をつとめるニッキー・ウェストと対照的に描かれる人物の一人として、「ありふれた事件」中に登場する検事であるエリス・ジョンストンという人がいます。
この人は、探偵役のニッキーとは対照的に描かれています。
ある事件について、
「『いやあ、これはいわば馴染みの事件だよ』」
と言い、
「『この市にも、職業的犯罪者というのがかなりいて、そういう連中がしょっちゅう事件をおこしてくれるおかげで、われわれも飯の食い上げにならずにいるわけで、したがってわれわれにとっては、そういう連中はいわば馴染みみたいなものなんですよ』
(中略)
『・・・そういう場合は、ふつう、事件がおこるや否やわれわれにはそれが誰の仕事かすぐにわかりますね』」(173~174頁)
と語っているわけです。論理性というものとは対極にある考え方です。
話はエリスの推理は誤っていて、ニッキーが真相を解き明かすというものなのですが。
しかし、何かのプロであるということは、こういうエリスのような思考パターンに陥りがちです。(ちなみに、物語でもエリスはプロ(検事)でニッキーはアマチュア(大学教授)です)
たくさんのパターンを経験として知っているがゆえに、新たな事件もそのパターンに当てはめてしまうという。
そうしないと、多くの仕事をこなしていくことはできないし、そもそも、大部分の事件は、このようなプロの発想によって解決できるわけですから、それが100%悪いことだとは言えないと思います。
しかし、「プロ」であるがゆえに陥りやすい失敗は確かに存在していて、「プロ」として働くのであれば、それを自覚して、時折立ち止まることもしなければ、とここのところを読みながら自戒したのでした。
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