特許コラム

2010年11月 8日 月曜日

研究者とビジネス

 先日お会いしたある方が、
「日本人の研究者はビジネスへの意識が低い」
ということをおっしゃっていました。その方がおっしゃるには、それをアメリカ人の研究者が言っていたとのことです。
 
 それに対して
「そんなことはないです!」
と反論する材料は見つかりません。私自身も研究者時代にちゃんとビジネスのことを考えて行動していたか、と考えると、胸を張れなくなるところもあります。
 
 最近、新聞などを読んでいると、
「日本人は技術においては優れているけれど、ビジネスで負けてしまう」
といった論調の記事をよく見ます。
 その新聞の分析が正しいかどうかは分かりませんが、こういう記事の論調とその方がおっしゃった言葉が自分のなかでつながってしまったので、ううむ、と考えてしまいました。
 
 企業の研究者は、確かにビジネスとしてどうやって儲けるかを考えながら研究をしなければなりません。企業での研究は遊びではないですし、会社の儲けに寄与することで給料を貰っているわけですから。
しかし、そこをきっちりと考えている研究者は決して多数派ではないと思います。日本人は年功序列的ですから、現場で実験の作業をしている若手は、ビジネスに関することは上の人が考えること、と思っているかもしれません。
特許というのは、研究からビジネスへとつなげていく過程で役に立つべきものですから、特許の仕事をしている人はここのところを「自分に関係ないこと」とは思わず、そこのところを補っていくくらいの気持ちが必要だと思うのですが。
 
もう一つ大きな問題として、知財の仕事をしている方で「ビジネスの目」を持っている方も残念ながら少ない、と思います。知財の人は特許の手続きだけやっていればいいんだ、という気持ちの方も多くおられるように思えてなりません(もちろん、そうでない方もたくさんおられますが)。
 
 と、このように書いてみたものの、反対側には本当にそこまでビジネスでがんじがらめにする必要があるのか? という疑問はあります。
日本が技術という意味で多くの成果を挙げたのは、「純粋に研究に熱中する」気質の人が多いから、という気もしないではないですし。とはいえ、サラリーマンとしてみたときに、研究しているだけでいいのか、ということは基本的な問題です。
 
この先、日本が国際社会でのビジネスを重視して、技術の諸外国への漏出を防衛したい、というのであれば、こういうところはポイントになるのかもしれません。
 そして、弁理士も「単に出願手続きをしていればいい」というのではなく、もう一歩考えなければならないのかもしれない、と思います。
 

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2010年11月 5日 金曜日

知財コンサルタント

 最近、弁理士会はこの知財コンサルタントということを推していて、こういう言葉を聞くようになりました。
 正直なところ、私は弁理士が知財コンサルタントをやることは、相当難しいのではないか、と思っています。
 
 仕事として、「出願等の代理人業務」と「コンサルタント業務」は相容れないところがあります。
 「代理人業務」をやりつつ「コンサルタント業務」をやる、ということになったとき、自分のなかでスイッチの切り替えをしなければ、独善になったり、売上至上主義になったりして、収拾がつかなくなる気がします。
 
 例えば、ある発明について、
「この件は出願したほうがいいですか」
という質問をされたとします。これは、特許事務所をやっていれば、時折される質問です。その仕事は、「コンサルタント的」です。
 そのような場合に、
「出願すべきです!」
と言ったとき、自分の心の中に
「出願したら売り上げにつながるから、出願する方向にもっていきたい」
という気持ちが全くないと断言できますか。
 
 また、反対に
「出願しても権利化される可能性は低いですよ」
と説明したときに、
「それでもいいから出願して下さい」
と言われる場合もあります。そんなときに、
「オレが出願しないほうがいい、と言っているのに出願するということは、オレの言うことを信用していないのか」
といった気持ちが生じない、と断言できますか?
 
 また、依頼する企業側からしても、「本当にこの人の言うとおりにやって大丈夫なのか」と疑念を抱くことは当然発生するでしょう。そのときに、どこまで弁理士の意見と自分たちの意見の間でバランスを取れますか? 弁理士のいいなりにならずに自分たちの意志で知財行政を行って行けますか?
 弁理士に正しいけれども耳の痛いことを言われたときに、怒らずに自分たちの企業風土を改革していこう、と考えられますか?
 
 このように、独善的に自分の考えを押し付けすぎてしまったり、自分のなかの欲を感じてしまったり、という経験は、私もこれまでに何回もあり、そのたびに後で猛反省しています。
 しかし、打ち合わせの場では熱くなっているので、うまく自分がコントロールできない場合もあります。
 
 普通の出願における局面でさえ、このような難しさを感じているのに、コンサルタントとして企業の知財運営に関わるとなると、難しさは更に一段上がるでしょう。
 
 弁理士も企業知財担当者も人間である以上、こういう人間臭い感情をゼロにすることは不可能です。それならば、出願業務を代行する代理人として割り切ったほうが、弁理士にとってもクライアント企業にとってもやりやすい形になるでしょう。
 
 ということが現状であると思うのですが、反面、「知財コンサルタント」という響きに憧れを抱いてしまう自分がいるのも事実ではあります。
こういう「知財コンサルタント」のような考えを取り入れつつ、仕事をすることができたら、自分自身の特許の仕事のレベルも上げていけるのではないか、と思うこともあります。
 
そうは言いつつも、現実の厳しさを感じることも多く、思い通りにならないことばかりではありますが。

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2010年11月 4日 木曜日

事業仕分け

「特許特別会計」についての事業仕分けが10月29日に行われたそうですね。
 
 私は傍聴に行っていませんし、その内容のすべてを確認したわけでもありません。しかし、ネットを見ると、どのような議論がされたかということについて、それなりに調べられます。
 私は、本ブログでは政治的なことには触れないことにしているので、政治的にこのことがどうだこうだ、と書く気はありませんが、せっかくなので思ったことを少しだけ。
 
 今まで事業仕分けと言われても、ピンと来なかったわけです。自分の知らない分野で議論されていることは、どっちが正しいようにも見えるわけです。そして、門外漢である私がどっちが正しそうに感じたかは、単なる印象であり、重要なことではありません。
 
 しかし、特許に関することとなると、私も門外漢ではないですし、論じられている事項の実態についても少しは知識があるわけです。
 そういう意識で事業仕分けを見ることができる、というのは初めてだし、ちょっと興味深いなと感じました。
 
 が。
 正直、切り込みが深いわけでもないし、論点も少なくて、あまり面白くなかったのではないか、というのが正直なところです(傍聴したわけでも、動画を見たわけでもないので、断言はしません。ただ、文章の書き起こしを読んで、是非動画を見たい、と思うほどではありませんでした)。
 
仕分け人の側にも、「変革」というほどの提案は少なかったし、「こうしたい」というビジョンが見えなかったのは残念な気がします。
 コストを少しでも下げろとか、外郭団体に利権を持たせるなとかいう議論は、失礼な言い方をすれば「誰でも言えること」だし、「そんなことくらいしか、話すことなかったの?」という気もしないでもなかったです。そんなことは、将来の方向を示す指針になる提案でもないですし。
 
 とはいえ、大した議論がなかったということは、現在の特許庁の運営が概ね問題なく進んでいるということの証かもしれないので、むしろ良いことかもしれません。
 
 後は。
 仕分け人というのも、大変だなぁと。仕分け人にとって、特許の分野のことなんて未知の世界でしょうし、ちょっとくらい勉強したところで、議論の対象になっていることの根本なんて分かりっこない、という気がしました。
 そんななかで、事業の要否を決めようとしているわけですから、そりゃあ、無茶も生じるわな、と。
 これまでの事業仕分けのごたごたも何となく納得できる気がしました。
 
 あと、IPDL(特許庁電子図書館)の廃止、ということをここで言うのはどういうこと? と思いました。新検索システムが完成したらそちらに移行して、現在のシステムを廃止する、というだけのことらしいです。しかし、ネット上ではIPDLを廃止するというだけの話を誤解して驚いている人も見ました。
 新システムをやるから旧システム廃止って、別に議論に乗せるほどの話でもないような気がするのは、私が政治の世界を知らないからなのでしょうか。
 それとも、その点について、私が知らない論点がどこかにあったのでしょうか。ご存知の方は教えてください。
 

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2010年11月 1日 月曜日

LYUBOV BRUK & MARK TAIMANOV

 今から特許にも化学にも全然関係のない話を書きます(特許ブログなのに……)。
 話はかなり遡るので、前置きが長くなることをご了承下さい。
 
 私は小学校の5年生くらいから、自己流でピアノをやってます。最近は、練習の時間もないので、ほとんど弾いていませんが、高校生の頃などは、平日に最低2時間、日曜日は5,6時間は練習をしていました。夏休みはほぼ毎日5時間くらいはピアノを弾いていたのではないでしょうか。
 それだけ練習したので、素人にしてはまあまあ弾けるほうだと思います。
 
 で、社会人になり、弁理士試験の勉強をしたりすると、ピアノを弾く時間などなくなってしまいます。
しかし、弁理士試験の勉強の時期は、ピアノのCDを聞くことに熱中していました。勉強をしながらずっとピアノのCDをかけていました。土曜日に受験予備校に行った帰りに、タワーレコードに行ってCDを漁るのが数少ない楽しみでした。勉強しながらできる楽しみとなると、それくらいしかなかったわけです。
 そのせいで、我が家には「どうするんだ」と言いたくなるほど大量のピアノ曲のCDがあります。
 ちなみに、私はピアノに関しては100%クラシック派なので、ほぼすべてクラシックのピアノ曲のCDです。
 
 その大量のCDの中には、私が強い思い入れを持つものが幾つかありますが、そのなかで一番奇妙な思い入れを持つのが、これです。
 
 タイトルのLYUBOV BRUK & MARK TAIMANOVというのはピアニストの名前で、旧ソ連の夫婦デュオです。今見ると、1959~1968年にかけて録音された音源です。私が持っているCDは2000年前後に「Great Pianist of the 20th Century」というタイトルで100タイトルでたもののうちの1つで、2枚組で長時間入っているお得CDです。
 入っている曲は、ピアノマニアな私でさえもあまり馴染みのない曲がほとんどです。モーツァルト、ショパンは皆さん作曲家としては知っているでしょうが、ここに入っている曲は有名なものではありません。
それ以外はラフマニノフ、プーランク、アレンスキー、ブゾーニという一般には馴染みのない人たちの曲です。
それもやむなし。連弾や二台のピアノのための作品というのは、決して数が多くないですから、そういう曲で2枚のCDを埋めようとするとこういう結果になるわけです。
 
 と。ここまでで前置きです。
 で、何が言いたいかというと、私はこのCDが本当に大好きで、何回も繰り返し聞いています。が、このCDについて私と話をしてくれる人は誰もいないのがとても悲しいです。
 特に、プーランクの「2台のピアノのための協奏曲」は何回聴いても新鮮に聴こえる不思議な演奏だと思います。「ロシア的」というより「ソ連的」な圧迫された鬱屈があって、プーランク(フランス人)の曲なのに、異様に重苦しい熱気があるという。荒々しい野性的なオーケストラの響きも最近のオーケストラでは聴けない独特のものですし、録音があまりよくないのも、かえって「ソ連」的に聞こえます。
 ラフマニノフもいいです。お国ものですから、こちらは「らしい」演奏です。非常に熱っぽくて、どこか病んだ印象を受けるのもラフマニノフにふさわしいといえるでしょう。
 と、ここで書いても興味を持ってくれる人が誰もいないわけですが。
 
 そもそも、このCDが出た直後に買って聴いて、非常に感動した私はクラシックマニア御用達の某雑誌のCD評を見たのですが、ほとんどまともに取り上げられていません。その後も、話題に上ることはなく、CD屋の店頭から消えていきました。
 自分のことではないのに、なぜか「無念」という思いを抱いたのを覚えています。
 
 だからどうした、と言われることを承知でこんなことを書いたのは、週末、久しぶりにこのCDを聴いたら「やっぱりいい!」と思って、つい書いてしまった、ということでもあります。お許し下さい。次回からは特許ブログに戻ります。
 
 ちなみに、夫のMARK TAIMANOVはチェスのプレーヤーでもあったそうです。それも世界選手権にも出場するようなレベルの。で、今Google検索すると、日本語ページはチェスに関するページしか存在しませんでした(それも哀しい……)。
 その内容を読むと、結構大変な人生だったようで、ピアニストとしての活動を国家から禁止されて経済的に行き詰ったせいで1970年代に離婚してしまったようです。
 
 更に、このCDにも幾つかの曲が入っているプーランクという作曲家は、フランスの大手化学会社、プーラン(合併を繰り返して、今はサノフィ・アベンティス)の創業者の息子ということです。
 最後に無理やり化学の話と結びつけたところで、今日のブログはおしまいです。
 
 あ、ちなみに、ここではマイナーなピアニストの名前を書きましたが、その他は私の好きなピアニストは普通ですよ。決してアンチメジャーということを思っているわけではありませんので。

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2010年10月27日 水曜日

文系の論理性


 ここ2回、資生堂vsマンダムの訴訟について書いてきて、次が最後と言いつつ、思うように考えがまとまらないので、今回はちょっと別の話を。
 この訴訟についての最終回は、考えがまとまったらできるだけ早く公開させて戴きます。
 
 今回は文系の論理というのはやはり難しいですね、という話です。
前に幽霊はいるのか?という記事のなかで、理系の論理性と文系の論理性ということを書きましたが、やっぱり「文系の論理性」というのは難しいな、ということを感じます。
 
 
 例として、(一時多かった)元従業員が発明を譲渡したことに対する対価を求める訴訟ケースが起こった場合を考えます。
 例えば、原告として訴えた従業員が、発明完成時点で研究開発グループのリーダーだったとします。
被告になった会社としては、当然「対価を払わなくてもよい」という判決が欲しいわけです。でも、どうやって理屈を作るかが苦しいとなったときに、
「原告は発明の完成に寄与していない」
という主張をしたとします。
 
ここで、「原告は発明の完成に寄与していない」ということは「対価を払わなくてよい」という結論を導くための「前提」になります。
 発明の完成に寄与していないのなら、対価を得る権利がないのは当然のことです。ここのところは論理的に正しい所です。
 
 しかし、その「前提」になる「原告は発明の完成に寄与していない」ということは、正しいのかどうか、ということです。ここのところがきちんと主張できていないと、いくら、その後の論理が正しくても何の意味もありません。
 
 世間の常識として
「『研究開発グループのリーダー』だった人が開発に一切寄与していないなんて、本当?」
という気持ちがどうしても発生するわけです。その前提のところで常識を覆すのはそう簡単ではありません。
 
 会社側としては
「会社を辞めた上に訴訟まで起こしやがって、この裏切り者めが」
という感情があるから、「びた一文払いたくない」という気持ちになりがちです。
でもその感情のせいで、「前提」が世間の常識からずれた無理やりな論理だけを作っても、思ったような判決が得られなくなるおそれがあります。
 
 それなら、最初から、
「原告も発明の完成には寄与していたけれど寄与率が低いから、対価を払ってもいいけどその額は少額にすべき」
という論理に持って行って、支払い額を安くするための議論に注力したほうが、会社としては得な場合もあるわけです。
 そのあたりの判断をするということが「感情を抑えたクールな目」を持つことでもあります。
 
 そういうことを書きつつも、世の中の全員が「論理的」に行動する社会なんて息苦しくて全然楽しくない世界だとは思います。
 でも、法律に関することにぶつかったときには、こういう「論理的な行動」が得につながる、ということは覚えておいたほうがよいかもしれません。特に仕事で法律を扱う方の場合は。
 
 前提がきちんとしていないせいで、それらしく見えるけれど意味のない理論については、パオロ・マッツァリーニ氏の諸作においても色々と論じられています。興味のある方は読んでみられてはどうでしょうか。
 
 

投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL

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