特許コラム
2013年4月 9日 火曜日
事務所弁理士ができること
投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL
2013年4月 4日 木曜日
いつの間にやら5周年
気がつけば、事務所開設5周年となりました。
だからといって、記念に何かをやるわけでもなく、いつもと同じように5年目の日は過ぎていきました。
改めて言うのも何ですが、長い5年だったと思います。「あっという間の5年だった」という思いは自分の中には全くないです。それだけ色々なことがあり、濃厚な時間であったということでしょう。
その間に仕事に対する自分の考えもずいぶんと大きく変わったと感じます。事務所経営というものを現実にやる前とやった後とでは考えが変わるのは当然のことなのかもしれません。
間違いなく言えるのは、
「どうせ物事は思った通りに進まないのだから、やきもきしても仕方がない」
と思うようになったというところでしょうか。
そう思うことでずいぶんと精神的には楽になったような気がします。
この考えは特許のことでも実は同じだと思います。
特許のことなんて、「思惑通りに行かない」と思っているくらいでちょうどいいかもしれません。「絶対に計画通りに進める」と思い、「綿密な計画を立て込み過ぎる」ことはかえって失敗のもとだと私は思います。
というわけで、別に5周年らしいことを書くわけでもなく、どうでもいいことを書いて久しぶりのブログ更新としました。
それにしても、私の考えは、「行き当たりばったり」という弁理士らしからぬ方向へどんどん向かっているような気もしますが、世の中にそんな弁理士が一人くらいいてもいいでしょう。
投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL
2013年2月24日 日曜日
貝原益軒のこと
まだ最後まで読んでいないわけですが、とりあえず、面白い本です。でも私が語りたいことはこの本のことではないかもしれません。
この本を読んでいて(まだ途中までですが)感じるのは著者のあふれだす「貝原益軒愛」という感じがします。それは非常に説得力のあるものであり、私もこれを読んでいると、貝原益軒の本を読みたくなりました。
私は高校時代日本史選択者でしたから、「貝原益軒、養生訓」とお題目のように唱えていました。でもそれがどんな本かも知らず、読んでみたいと思ったこともありませんでした。
しかし、この本のなかで引用されている貝原益軒のことばは、非常に含蓄が深く、現代の世の中にも十分に通用するものであるように思います。著者が選んだ貝原益軒の言葉のすべてが含蓄深く、私にとっては心動かされる言葉であったように思います。
そういう意味で、著者の「貝原益軒愛」は素晴らしいものであり、著者自身の美意識と貝原益軒の美意識がシンクロした感じがあります。
私にとってもっとも印象の残った以下の言葉は、法律の言葉として今の世にも通じることでしょう。
「又、訴をきく人、人ごとに必ずしも賢明ならず。きゝあやまりて是を非とし非を是とし、或いは、かた口を聞きて信じ、聞きあやまる事多し。又、親類、権貴の人に頼まれ、或ひは賄賂にふけりて私する事、古来、その例すくなからず。さればいかなる正直の人、道理明白にして証明分明なれども、終に其の理を得ずして本意をとげず、却りて、とがにおちいること多し。吾に理あることをたのむべからず。已む事を得ば、訟をなすべからず」(同書 第88~89頁)
書き写すのが面倒なので、現代語訳は書きません。現代語訳を読みたい方はこの本を見て下さい。なんとなく意味は分かるでしょう。悲しいくらいの諦観を覚える言葉です。でも、法律の仕事に携わる人であれば、共感できる人は多いのではないでしょうか。
人は、
「自分は正しいことをやっているのだから、裁判に至ればその正しいことを認めてもらえるはずだ」
と思いがちです。でも、必ずしもそうと言えないのは現代社会でも同じであるように思います。
実際、数年前に話題になったとある映画がこれと同じテーマを扱っていることを思えば、それは現代においても解決されていない問題であると思います。
もちろん、
「そんな間違った主張がまかり通る世の中は間違っている」
との怒りを叫ぶこともできます。
しかし、江戸時代から平成のこの世の中まで、同じ問題が解決されていない、ということは、そんな叫びが無力であることを思い知らされる気がします。
私は特許の仕事のなかで、この言葉のようなことを実感したことは何度もあります。それが解消されるのであれば、私もそれを望みます。しかし、その見通しが立っていない以上、貝原益軒の
「吾に理あることをたのむべからず。已む事を得ば、訟をなすべからず」
との言葉をすべての人は胸に刻むべきではないか、と思います。
投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL
2013年1月29日 火曜日
今更ですが......
で、なぜ急に更新かと言うと、先日某社の特許部の方と飲みに行く機会があり、飲みながら色々と知財の話をしていたのですが、そのなかで印象に残った言葉があったので、自分自身の備忘録として書かせていただきます。
話題は(今更ですが)、平成23年のトピックであった「切り餅事件」(越後製菓と佐藤食品との間の特許紛争。原告(特許権者)の越後製菓が勝訴して、かなり高額の損害賠償額を得ました)の話になりました。
あの事件で、被告であった佐藤食品は、原告越後製菓の特許は新規性に基づく無効理由が存在するとの抗弁を行っていました。あの部分についてどう思うか、という話になりました。
私もあの判決を読んでいて、一番頭を悩ませたのはあの部分でした。
被告である佐藤食品の主張は、「佐藤食品はあの特許の切り餅と同じ切り餅を特許出願前から販売していたから、越後製菓の特許には新規性がない」、というものです。
判決文を読まれると分かりますが、ここのところ、読んでいて非常にもやもやした気分になります。佐藤食品の主張が「嘘だ」と断言することはできないような印象を抱いてしまうんですよね。
裁判所はそれを認めず、新規性の無効理由なし、との判決を下したわけですが。
これを読んで思うのは、「真実」というのと「真実を証明する」ということは全然別のことで、裁判において重要なのは「真実」ではなくて「真実を証明する」ということなんだなぁということです。
平成23年ごろになって平成14年頃にどんな商品を出していたか、なんてことを証明するのはそんなに簡単なことではないです。ましてや、関係者でもない裁判官が限られた資料のなかから完全な真実を知ることは不可能です。
だから、提出された証拠を見て判断したところ、少なくとも「公知だったことを証明しきれていない」という結論を下したという印象です。
この件について考えていると、私は2007年公開の「それでもボクはやってない」という映画のことを思い出します。 あの映画でも主人公は痴漢をやっていない、と主張するわけです。そしてそれは「真実」です。
あの映画の場合は「映画」であるから、見ている人は主人公が痴漢をやっていないことを「知って」います。
でも、現実のできごとの場合は、真実を知るのは本人だけです。そしてその真実を第三者に分かってもらうことは容易なことでありません。
この切り餅事件でも、平成14年頃に佐藤食品がどのような商品を出していたのかという点について、真実は一つのはずです。
しかし、その10年近く昔の事実を第三者が知ることは不可能であり、最後は「証明できたかどうか」によって判断するしかなくなってしまいます。
あの判決文を読んでいると、裁判官は佐藤食品が主張している色々なことを「矛盾している」「整合性が取れていない」等といった感じで切り捨てていきます。しかし、人間というのはそんなに合理的に行動するものではないし、整合性のとれた考えのもとに生きているものでもありません。
あのあたりの切り捨て方の乱暴さは結構怖い感じがします。
その部分について、証明はできなかったかもしれないけれど、佐藤食品の主張が正しかった可能性もあるような気がする……と私はずっと感じていました。
そして、そこのところで、私と某社知財部の方の意見は一致したのでした。
誤解しないで頂きたいのは、私は佐藤食品の主張が正しくて裁判所の判断が間違っている、ということを言いたいわけではありません。当然のことながら私が「真相を知ること」は不可能です。
ただ、あの判決において裁判官は「真実を知った」上で判決を下しているのではなくて、「佐藤食品の証明が完璧ではない」から、あの判決を下した、という印象を持ちました。あくまでも真実は藪の中のままです。
「真実の証明」ができなかったら裁判に負けてしまうというのは、今の世の中でやむを得ないことであります。だからこそ、特許の世界で「こと」にあたるときは、「真実」より「その真実を証明できるのか」という点のほうが重要だということを肝に銘じなければならない、と思ったのでした。
投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL
2012年5月 8日 火曜日
「銃・病原菌・鉄」
投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL