特許コラム

2013年4月 9日 火曜日

事務所弁理士ができること

  会社の方のなかには
「自分たちが分からないことは特許事務所に投げておけば、適当にいいようにしてくれる」
と思っている方もおられるでしょう。私もそんな言葉を投げられたことが何度かあります。
 
 しかし、事務所弁理士にできることに限界があるのも事実です。事務所弁理士は会社の人間ではないですから、会社の社内事情は知りませんし、業界の裏で何が起こっているかもわかりません。会社の人が「当然」と思っていることを知らないことも多くあります。
 
 特許を出願するときに明細書を書くことはできますが、その特許が研究開発テーマのなかでどのような位置づけであるのかを知ることはほとんどありません。出願した後にその技術がビジネス上どのように進行していったか、ということなど知ることはできません。
 
 そもそも、事務所弁理士はたくさん扱っている出願の中で顧客にとってどれが重要特許なのか、どの技術が実用化に向けて進んでいるのかという根本的なことさえ全く知らずに仕事をしていることが多いです。ある種、何も知らされることなく、ただ機械的に言われた作業を行っているとも言えます。拒絶査定が来て初めて、「重要特許だ」と知らされるケースなどしょっちゅうです。
 
 それもやむを得ない部分があります。それら情報は「企業秘密」である場合が多いでしょうから、顧客側が積極的に特許事務所に話してくれることはまずない、と思います。
 
 そんな中で、事務所弁理士ができることに限界があるのは当然でしょう。「知財コンサルタント」なんて怪しげな言葉が一時出てきましたが(今もあるのでしょうか)、そんな言葉に夢を持つことなどできないと思います。「コンサルタント」において何より重要なものは「情報」だと思います。しかし、「情報」を充分に与えられない今の事務所弁理士が「コンサルタント」など嘯いてもむなしいだけです。
 
 結局、事務所弁理士の仕事とは、余計な先入観や情報なしに、外の立場から客観的で醒めた意見を述べることではないか、と思います。そんな人間もビジネスの場面では絶対に必要だ、と思います。
 実際、特許審査の過程でも、侵害訴訟の裁判でも、審査官や裁判官は社内事情・業界事情の細かなことを知らずに機械的な判断で判決を下すわけです。ですから、それと似た立場で判断する人間が社外にいることは重要なことのはずです。
 むしろ会社の立場に感情移入して、会社にとって都合の良い主観的な意見を言うことのほうが弁理士の本分を外れたことかもしれません。
 
 このあたりは色々な意見があると思います。また、色々な意見の人がいたほうがよいとも思います。しかし、最近、色々な場面で「特許事務所弁理士にできること」の限界を思い知らされることが多いのもまた事実です。
 

投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL

2013年4月 4日 木曜日

いつの間にやら5周年

   気がつけば、事務所開設5周年となりました。

 だからといって、記念に何かをやるわけでもなく、いつもと同じように5年目の日は過ぎていきました。

 

 改めて言うのも何ですが、長い5年だったと思います。「あっという間の5年だった」という思いは自分の中には全くないです。それだけ色々なことがあり、濃厚な時間であったということでしょう。

 

 その間に仕事に対する自分の考えもずいぶんと大きく変わったと感じます。事務所経営というものを現実にやる前とやった後とでは考えが変わるのは当然のことなのかもしれません。

 

 間違いなく言えるのは、

「どうせ物事は思った通りに進まないのだから、やきもきしても仕方がない」

と思うようになったというところでしょうか。

 そう思うことでずいぶんと精神的には楽になったような気がします。

 

 この考えは特許のことでも実は同じだと思います。

 特許のことなんて、「思惑通りに行かない」と思っているくらいでちょうどいいかもしれません。「絶対に計画通りに進める」と思い、「綿密な計画を立て込み過ぎる」ことはかえって失敗のもとだと私は思います。

 

 というわけで、別に5周年らしいことを書くわけでもなく、どうでもいいことを書いて久しぶりのブログ更新としました。

 

 それにしても、私の考えは、「行き当たりばったり」という弁理士らしからぬ方向へどんどん向かっているような気もしますが、世の中にそんな弁理士が一人くらいいてもいいでしょう。

 

投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL

2013年2月24日 日曜日

貝原益軒のこと

  今読んでいる本は、「江戸の紀行文 泰平の世の旅人たち」(板橋耀子著 中央公論新書刊 2011年1月25日発行)です。

 まだ最後まで読んでいないわけですが、とりあえず、面白い本です。でも私が語りたいことはこの本のことではないかもしれません。

 

 この本を読んでいて(まだ途中までですが)感じるのは著者のあふれだす「貝原益軒愛」という感じがします。それは非常に説得力のあるものであり、私もこれを読んでいると、貝原益軒の本を読みたくなりました。

 私は高校時代日本史選択者でしたから、「貝原益軒、養生訓」とお題目のように唱えていました。でもそれがどんな本かも知らず、読んでみたいと思ったこともありませんでした。

 しかし、この本のなかで引用されている貝原益軒のことばは、非常に含蓄が深く、現代の世の中にも十分に通用するものであるように思います。著者が選んだ貝原益軒の言葉のすべてが含蓄深く、私にとっては心動かされる言葉であったように思います。

 

 そういう意味で、著者の「貝原益軒愛」は素晴らしいものであり、著者自身の美意識と貝原益軒の美意識がシンクロした感じがあります。

 私にとってもっとも印象の残った以下の言葉は、法律の言葉として今の世にも通じることでしょう。

 

「又、訴をきく人、人ごとに必ずしも賢明ならず。きゝあやまりて是を非とし非を是とし、或いは、かた口を聞きて信じ、聞きあやまる事多し。又、親類、権貴の人に頼まれ、或ひは賄賂にふけりて私する事、古来、その例すくなからず。さればいかなる正直の人、道理明白にして証明分明なれども、終に其の理を得ずして本意をとげず、却りて、とがにおちいること多し。吾に理あることをたのむべからず。已む事を得ば、訟をなすべからず」(同書 第88~89頁)

 

 書き写すのが面倒なので、現代語訳は書きません。現代語訳を読みたい方はこの本を見て下さい。なんとなく意味は分かるでしょう。悲しいくらいの諦観を覚える言葉です。でも、法律の仕事に携わる人であれば、共感できる人は多いのではないでしょうか。

 

 人は、

「自分は正しいことをやっているのだから、裁判に至ればその正しいことを認めてもらえるはずだ」

と思いがちです。でも、必ずしもそうと言えないのは現代社会でも同じであるように思います。

 

 実際、数年前に話題になったとある映画がこれと同じテーマを扱っていることを思えば、それは現代においても解決されていない問題であると思います。

 もちろん、

「そんな間違った主張がまかり通る世の中は間違っている」

との怒りを叫ぶこともできます。

 しかし、江戸時代から平成のこの世の中まで、同じ問題が解決されていない、ということは、そんな叫びが無力であることを思い知らされる気がします。

 

 私は特許の仕事のなかで、この言葉のようなことを実感したことは何度もあります。それが解消されるのであれば、私もそれを望みます。しかし、その見通しが立っていない以上、貝原益軒の

「吾に理あることをたのむべからず。已む事を得ば、訟をなすべからず」

との言葉をすべての人は胸に刻むべきではないか、と思います。

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2013年1月29日 火曜日

今更ですが......

  久々の更新です。本当に久々です。別にブログ辞める気はないのですが、色々事情がありまして。久々すぎて、記事のアップの仕方を完璧に忘れていました。こんなに手間取ったのも初めてです。

 

 で、なぜ急に更新かと言うと、先日某社の特許部の方と飲みに行く機会があり、飲みながら色々と知財の話をしていたのですが、そのなかで印象に残った言葉があったので、自分自身の備忘録として書かせていただきます。

 

 話題は(今更ですが)、平成23年のトピックであった「切り餅事件」(越後製菓と佐藤食品との間の特許紛争。原告(特許権者)の越後製菓が勝訴して、かなり高額の損害賠償額を得ました)の話になりました。

 あの事件で、被告であった佐藤食品は、原告越後製菓の特許は新規性に基づく無効理由が存在するとの抗弁を行っていました。あの部分についてどう思うか、という話になりました。

 

 私もあの判決を読んでいて、一番頭を悩ませたのはあの部分でした。

被告である佐藤食品の主張は、「佐藤食品はあの特許の切り餅と同じ切り餅を特許出願前から販売していたから、越後製菓の特許には新規性がない」、というものです。

 判決文を読まれると分かりますが、ここのところ、読んでいて非常にもやもやした気分になります。佐藤食品の主張が「嘘だ」と断言することはできないような印象を抱いてしまうんですよね。

 裁判所はそれを認めず、新規性の無効理由なし、との判決を下したわけですが。

 

 これを読んで思うのは、「真実」というのと「真実を証明する」ということは全然別のことで、裁判において重要なのは「真実」ではなくて「真実を証明する」ということなんだなぁということです。

 平成23年ごろになって平成14年頃にどんな商品を出していたか、なんてことを証明するのはそんなに簡単なことではないです。ましてや、関係者でもない裁判官が限られた資料のなかから完全な真実を知ることは不可能です。

 だから、提出された証拠を見て判断したところ、少なくとも「公知だったことを証明しきれていない」という結論を下したという印象です。

 

 この件について考えていると、私は2007年公開の「それでもボクはやってない」という映画のことを思い出します。 あの映画でも主人公は痴漢をやっていない、と主張するわけです。そしてそれは「真実」です。

あの映画の場合は「映画」であるから、見ている人は主人公が痴漢をやっていないことを「知って」います。

 でも、現実のできごとの場合は、真実を知るのは本人だけです。そしてその真実を第三者に分かってもらうことは容易なことでありません。

 

 この切り餅事件でも、平成14年頃に佐藤食品がどのような商品を出していたのかという点について、真実は一つのはずです。

 しかし、その10年近く昔の事実を第三者が知ることは不可能であり、最後は「証明できたかどうか」によって判断するしかなくなってしまいます。

 あの判決文を読んでいると、裁判官は佐藤食品が主張している色々なことを「矛盾している」「整合性が取れていない」等といった感じで切り捨てていきます。しかし、人間というのはそんなに合理的に行動するものではないし、整合性のとれた考えのもとに生きているものでもありません。

 あのあたりの切り捨て方の乱暴さは結構怖い感じがします。

 

 その部分について、証明はできなかったかもしれないけれど、佐藤食品の主張が正しかった可能性もあるような気がする……と私はずっと感じていました。

 そして、そこのところで、私と某社知財部の方の意見は一致したのでした。

 

 誤解しないで頂きたいのは、私は佐藤食品の主張が正しくて裁判所の判断が間違っている、ということを言いたいわけではありません。当然のことながら私が「真相を知ること」は不可能です。

 ただ、あの判決において裁判官は「真実を知った」上で判決を下しているのではなくて、「佐藤食品の証明が完璧ではない」から、あの判決を下した、という印象を持ちました。あくまでも真実は藪の中のままです。

 

 「真実の証明」ができなかったら裁判に負けてしまうというのは、今の世の中でやむを得ないことであります。だからこそ、特許の世界で「こと」にあたるときは、「真実」より「その真実を証明できるのか」という点のほうが重要だということを肝に銘じなければならない、と思ったのでした。

投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL

2012年5月 8日 火曜日

「銃・病原菌・鉄」

 大変ご無沙汰しております。色々と忙しくしていることもあり、ネタ探しのアンテナも鈍りがちです。ブログを書く時間がない、というよりもネタ探しの時間がないというほうが正確かもしれません。
 
 という前置きはさておき、最近読んだ本です。
「銃・病原菌・鉄」上・下(ジャレド・ダイヤモンド著 倉骨彰訳 原著1997年 草思社文庫)をようやく読み終わりました。
 文庫ではなくハードカバーで出ているのを見て、「面白そう」と思いながら何となく手を出せず、文庫化されたのを見つけてすぐに買ったのですが、読み切るまでに2カ月くらいかかってしまいました。
 
 といって、非常に読みにくいというわけではなく、むしろアカデミックな本のわりには読みやすいのではないでしょうか。翻訳もすみずみまで神経が行き届いていて、読みやすいのに軽すぎることもない良訳です。よく売れた本であるという話ですが、それも納得の一冊です。
 内容はというと、技術や文化・言語等の伝播、伝染病等の拡散等を分析することで、なぜ西欧文明が世界を圧倒することとなったのか、を論理的に解明していこうとする歴史に関する本です。
 
 こんな壮大なテーマであるし、400頁×2冊というボリュームの本で書かれていることをこんなブログで簡単に説明するようなものでもないので、内容についてはこれ以上書けません。
 ただ、感情や思いこみといったものを極力排して、現在明らかになっている学問的情報のみを頼りに文明の伝播を論理的に解釈していく部分は、非常に面白いものでありました。
 
 で、この本のなかでの第13章のタイトルが「発明は必要の母である」となっています。これは「ほほう」と思ってしまいました。この本を全部読む時間はない、という知財関係の方はこの章だけでも読まれてもよいのではないか、と思いました。
 
 一般に「必要は発明の母」と書かれるところですが、本書では「発明は必要の母」と書かれています。一文を引用しましょうか。
 「ところが実際の発明の多くは、人間の好奇心の産物であって、何か特定のものを作りだそうとして生みだされたわけではない。発明をどのように応用するかは、発明がなされたあとに考えだされている。」(下巻 第62頁)
 ここのところは、私も手を打ってしまいました。まさにその通り、と思いました。
 
 更には、
「また、ワットやエジソンのような、非凡な天才の役割が誇張されすぎている。出願者に特許の斬新さの証明を要求する特許法も、発明は非凡な天才によってなされるという見方を助長している。」(下巻 第65頁)
という一文もあります。
 まあ、著者は特許の専門家ではないので、特許について書かれた文章については完全に正確でない面もありますが、とにかく書いてあることは正しいと思います。
 
 弁理士として仕事をしていると、たまに「非常に面白い」けど「これは何の役に立つんだ?」と思うような技術を見ることがあります。また、化学系ですと発明者から新規の素材について「特殊な物性が出るけど、これが何の役に立つのかが分からない」という説明を受けることがあります。
 また、一見すると先の出願に比べると「ちょっとした違い」にすぎないように見えることが重要であることも多々あります。そういったものを見たときに感じたことと、この本のこの章で記載されていたことが、重なる気がして非常に興味深かったです。
 
 そういう意味ではこういった「世界の歴史の大きな流れ」を説明する本のなかで「発明」とか「特許」について考えさせられる材料が含まれている、というのも面白いことだと思いました。
 また、研究等を実際にされたことのない方で、仕事をする上で研究に関わることがあった場合はこのあたりの文章を軽くでもよいので心に留められておくとよいのではないでしょうか。

投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL

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