特許コラム
2013年1月29日 火曜日
今更ですが......
で、なぜ急に更新かと言うと、先日某社の特許部の方と飲みに行く機会があり、飲みながら色々と知財の話をしていたのですが、そのなかで印象に残った言葉があったので、自分自身の備忘録として書かせていただきます。
話題は(今更ですが)、平成23年のトピックであった「切り餅事件」(越後製菓と佐藤食品との間の特許紛争。原告(特許権者)の越後製菓が勝訴して、かなり高額の損害賠償額を得ました)の話になりました。
あの事件で、被告であった佐藤食品は、原告越後製菓の特許は新規性に基づく無効理由が存在するとの抗弁を行っていました。あの部分についてどう思うか、という話になりました。
私もあの判決を読んでいて、一番頭を悩ませたのはあの部分でした。
被告である佐藤食品の主張は、「佐藤食品はあの特許の切り餅と同じ切り餅を特許出願前から販売していたから、越後製菓の特許には新規性がない」、というものです。
判決文を読まれると分かりますが、ここのところ、読んでいて非常にもやもやした気分になります。佐藤食品の主張が「嘘だ」と断言することはできないような印象を抱いてしまうんですよね。
裁判所はそれを認めず、新規性の無効理由なし、との判決を下したわけですが。
これを読んで思うのは、「真実」というのと「真実を証明する」ということは全然別のことで、裁判において重要なのは「真実」ではなくて「真実を証明する」ということなんだなぁということです。
平成23年ごろになって平成14年頃にどんな商品を出していたか、なんてことを証明するのはそんなに簡単なことではないです。ましてや、関係者でもない裁判官が限られた資料のなかから完全な真実を知ることは不可能です。
だから、提出された証拠を見て判断したところ、少なくとも「公知だったことを証明しきれていない」という結論を下したという印象です。
この件について考えていると、私は2007年公開の「それでもボクはやってない」という映画のことを思い出します。 あの映画でも主人公は痴漢をやっていない、と主張するわけです。そしてそれは「真実」です。
あの映画の場合は「映画」であるから、見ている人は主人公が痴漢をやっていないことを「知って」います。
でも、現実のできごとの場合は、真実を知るのは本人だけです。そしてその真実を第三者に分かってもらうことは容易なことでありません。
この切り餅事件でも、平成14年頃に佐藤食品がどのような商品を出していたのかという点について、真実は一つのはずです。
しかし、その10年近く昔の事実を第三者が知ることは不可能であり、最後は「証明できたかどうか」によって判断するしかなくなってしまいます。
あの判決文を読んでいると、裁判官は佐藤食品が主張している色々なことを「矛盾している」「整合性が取れていない」等といった感じで切り捨てていきます。しかし、人間というのはそんなに合理的に行動するものではないし、整合性のとれた考えのもとに生きているものでもありません。
あのあたりの切り捨て方の乱暴さは結構怖い感じがします。
その部分について、証明はできなかったかもしれないけれど、佐藤食品の主張が正しかった可能性もあるような気がする……と私はずっと感じていました。
そして、そこのところで、私と某社知財部の方の意見は一致したのでした。
誤解しないで頂きたいのは、私は佐藤食品の主張が正しくて裁判所の判断が間違っている、ということを言いたいわけではありません。当然のことながら私が「真相を知ること」は不可能です。
ただ、あの判決において裁判官は「真実を知った」上で判決を下しているのではなくて、「佐藤食品の証明が完璧ではない」から、あの判決を下した、という印象を持ちました。あくまでも真実は藪の中のままです。
「真実の証明」ができなかったら裁判に負けてしまうというのは、今の世の中でやむを得ないことであります。だからこそ、特許の世界で「こと」にあたるときは、「真実」より「その真実を証明できるのか」という点のほうが重要だということを肝に銘じなければならない、と思ったのでした。
投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL