特許コラム
2011年4月13日 水曜日
資本に国籍はないのか?
以前読んで、本ブログでも取り上げた「世界経済を破綻させる23の嘘」(ハジュン・チャン著 田村源二訳 徳間書店)の一つの章に
「第8の嘘 資本にはもはや国籍はない」
という章があります。
その章の中身というのは、
「グローバリズムによって資本に国籍はないという考えがあるけれど、依然として資本に国籍はある」
というものです。
この本は色々と勉強になることが多かったのですが、この一言は特に印象に残っていたものの一つです。
「大半の企業の大半の最高経営責任者が本国の国籍をもつ者である以上、当然、彼らの意思決定にはあるていどのホーム・バイアスがかかることになる。自由主義者のエコノミストたちは純粋な利己利益追求という動機しか認めないが、”道徳的”動機というのは現に存在し、それは彼らがわたしたちに信じ込ませようとしているよりずっと重要なのである」(同書第121頁)
という一節は、現在の日本の状況にあって読むと、「確かにそのとおり」と思う言葉ではないでしょうか。
知財の世界でも、最近、日本企業が海外企業と争うケースが増えているように思います。特に大きい会社の大きい事件が海外で大型訴訟を行うケースも見られます。
そこについても、日本企業同士の場合は(例外もありますが)どこか、「そこまでムキにならなくても……」という気持ちがありますし、お互いに、「できるだけ訴訟は避けよう」という考えがあることが多いでしょう。
しかし、海外企業となると
「相手の企業の考えが分からないし、こちらの考えも伝わらない」
というケースも多いでしょうから、訴訟に繋がりやすい、ということもあるでしょう。
そういう意味では、知財戦略を考えるとき、「対日本企業」の場合と「対外国企業」の場合、更に、問題となる市場が日本である場合と外国である場合等のように分けてそれぞれ対策を変えていくことも必要であるのかもしれません。
私は本ブログにおいて、「訴訟はできるだけ避けるようにしたほうがよい」というスタンスで色々なことを書かせて戴いていました。それは、日本企業対日本企業が日本国内で特許問題を抱えた場合、という観点での考えである、と思います。
海外企業がこの問題にからんだとき、コトはそう単純にはならないな、と思います。このあたり、「意志決定にホーム・バイアスがある」ということを考慮すべし、ということでもあるように思います。
最近、日本企業が海外企業を外国で訴えるケースが増えているように思います。「訴訟は避けたほうがいい」というスタンスの私でも、こちらについては「ある程度やらざるを得ない」と考えます。
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2011年4月11日 月曜日
読書のこと
本ブログでは、よく私が読んだ本のことを取り上げます。
読んだ本全てを取り上げているわけではないのですが、それでも、このブログをお読みいただければ、私がどんな本をどれくらいのペースで読んでいるのかはお分かりになるのではないか、と思います。
でも、私も決して「ヒマ」なわけではないので、そんなに多く読書に時間を割けるわけではありません。ですから、「面白くない本」を読んで時間を無駄にするわけにはいきません。
そんなわけですから、本屋に行ったときの本選びは時間をかけます。
本を読むに際して、私は
「特定分野の本ばかり読まないようにしよう」
と心がけています。できるだけ幅広く色々な本を読んで、知識に偏りができないようにと思っているからです。それに、意外な発見があるのは、今まで自分が興味を持っていなかった分野に関する本であることが多いですから。
ですから、本屋に行ったときの本選びは本当に時間がかかります。特に、最近の本屋はでかいですから大変です。この前、梅田の茶屋町にできたMARUZEN & ジュンク堂などは、あまりにも巨大すぎてかえって本を探しにくいな、と思ってしまいます。興味のあるコーナーの棚をざっと一回りするだけで、結構な運動になる気がします。
それはさておき。
色々な分野の本を読むというのは大切だと思います。
私はここしばらく、「知財」に関する本はそれほど読んでいません。本ブログで取り上げている本も、ほとんど「知財」と直接関係のない本です。
でも、「知財と関係のない本を読んで得た知識とか、気付かされたこと」が自分のなかで蓄積されることで、「知財の仕事をするときの発想の厚み」というものが生まれるのではないか、と私は思っています。
そんな偉そうなことを書いてはいますが、私ももっと知財のことについても勉強しなければ、とも思っています。それに、そうやって知財関連の本を読んでいないから、ブログのネタがなかなか思いつかないのかもしれないですし。
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2011年4月 4日 月曜日
経済が要求する「無理」
私は、関西在住なので今回の地震による日常生活への影響はまったくありません。3月11日以前と以後とで日常生活は変化していません。
そして、このような状況の中、新聞などで、
「地震による影響を受けていない西日本は通常のように生活をして、過剰な自粛もせず、お金を使って経済を回す必要がある」
ということを言われるわけです。
いや、理屈は分かります。東日本の経済が停滞することが避けられないのであれば、西日本は経済を支える必要があるし、西日本まで自粛によって経済が低迷すれば、かえって悪いことになる、ということです。
しかし。
人間の感情としてそれは無理でしょう。
いくら、日常生活が普通に送れているからといって、やはり「あの地震で大変な人が大勢いる」という状況で、はしゃぐようなことはできないです。
でも、経済という観点から見ていると、そんな「無理」を言うわけですね。
こういう「景気を良くするために推奨されること」について、「無理」を言われていると感じるときがあります。こういうことを言われると、「世の中、経済より大切なことは何もないのか?」といいたくなります。
「経済をよくするため」という言葉は、もともとそれほど好きではなかったのですが、この地震でなおさらキライになっている面があります。
確かに、金がなければ何も始まりません。日本の現在においても、金がなければ復興の計画などまったく進まないでしょう。
その「金」のためには経済を少しでも良くすることが必要です。
それは分かるのですが、そのために「西日本は色々なことを自粛するな」と言われても、人間の感情として難しいな、と思います。
私は、かつて、「経済政策」については、どこかにものすごく頭が良くて「経済」の知識を持つ人がコントロールしているものだ、と思っていた頃がありました。しかし、「経済」というのは結局、何一つコントロールできず、こんな「無理」を言わなければならないようなものなのか、と思ってしまいました。
最近、私自身の「経済学」というものへの信頼感がほぼなくなってしまった私だけに、このような状況でもついついこういったことを考えてしまうのでした。
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