特許コラム
2011年2月14日 月曜日
「ソーシャル・ネットワーク」(映画)
三連休に「ソーシャル・ネットワーク」を観ました。今日はそのお話を。ネタバレありなので、そのつもりでお願いします。
私自身、フェイスブックって何? という状況だし、そもそもIT関連のことには疎くて、ネットベンチャーのことも何も知らない人間なので、よく分からないこと多かったのですが、雰囲気を楽しんだというところでしょうか。
この映画は、フェイスブックという会社の創業時代の話などをモデルにしているそうです。とはいえ、何年もの期間で現実に起こったことを2時間の映画に再現することは不可能ですし、映画である以上、「面白い話」にするための脚色がたくさんあるでしょう。ですから、私は実話を脚色してつくった「フィクション」として楽しみました。
ストーリーは、主人公がフェイスブックを立ち上げて、それを事業として軌道に乗せていくなかで、色々な人との軋轢があり、裁判を起こされたりもして……という話です。フェイスブックって、日本ではメジャーではないですが、アメリカでは相当メジャーなもののようですね。
まあ私はソーシャルネットワークサービスを全く利用していないので、どっちみちよく分かりませんが。
で、映画では、「知的財産」という言葉もでてきて、「アイディアをパクった」ということで怒って裁判を起こす人などもいるわけです。そういうところについて、色々考えてしまいました。
主人公を訴えたボート部の兄弟が
「最初にアイディアを考えたのは自分たちだ」
というのは、(現実の局面がどうだったのか知りませんが、映画のストーリー上は)事実だったかもしれません。
でも、その後で自分たちはアイディアを具現化するための仕事を何もせずに、主人公にまかせっきりに近い状態だったわけです。アイディアを現実のものとする能力もなければ、そのための努力もしていない。そして、自分たちの思い通りに動かなかった男のことを恨んで裁判を起こすという。
そのアイディアというのも、5年も6年も苦労して発見したというものでもなく、ちょっとしたほんとうの「アイディア」という程度のものであって。見ている範囲では、「最初のアイディアを思いついた人よりも、それを実際のものとするための作業を行った人のほうがずっと大変だったんじゃないのか?」と思うようなものでした。
なのに、後で事業が成功すれば、「アイディアは自分が思いついた」といって、訴訟を起こすという。
まあ、主人公もしょっちゅう人を騙したり陥れたりしているので、全く「善人」ではないわけですが、アメリカのネットビジネスなんて、(私の想像では)最初から「騙し騙され」の生き馬の目を抜く世界じゃないんでしょうか。
そんな世界で「騙された」と怒るのもあまり共感できないというか。
どちらかというと、裁判というのも「騙された怒り」というよりは、知人がものすごい金持ちになったから、たかって裁判で金を巻き上げようとしただけじゃないか、と邪推してしまいます。
でも、知的財産という制度は、突き詰めればこういう「ボート部の兄弟」を「正しい」とする制度なんですよね。この映画でも現実の世界でもこの「ボート部の兄弟」は和解金として相当な額を受け取ったわけですし。
ビジネスの成功はアイディアだけで達成されるものではなくて、それを現実のものとするための大きな努力があってこそのものです。アイディアは良かったけれど、それを実行に移すビジネスが下手だったせいでうまくいかなかった事例なんて、山ほどあるはずです。
でも、「知的財産」においては、「成功するための努力」を無視して、「優れたアイディア」が成功の全ての源、という考えを前提にしている面はあります。そのせいで、「知財保護なんてしないほうがいい」、という極論に一定の説得力が生まれるように思います。
まあ、私が普段仕事をしている「化学特許」の世界はこういう「生き馬の目を抜く」世界ではなく、もっと地味な世界なので、この話のような出来事が当てはまることはほぼないわけですが。
でも、そういう色々なことを考えたという意味で、面白い映画でした。観ておられない方もぜひ。
投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL
2011年2月10日 木曜日
特許の国際出願件数
今朝の日経に特許の国際出願件数についての記事が出ていましたね。
「世界知的所有権機関(WIPO)が9日に発表した2010年の特許の国際出願件数(速報値)で、2154件を出願したパナソニックが2年連続で首位となった。・・・(中略)・・・一方、「知的財産大国」を目指す中国勢が猛追。中国全体の出願件数は前年比56.2%増と大幅に伸び、2位と4位を中国の通信機器大手が占めた・・・(以下略)」(2011年2月10日日本経済新聞)
もうこういう報道の仕方は止めたらいいのに、と私は思います。
正直なところ、特許出願件数を、オリンピックのメダル数を競うかの如く、順位付けすることに何の意味があるというのでしょうか。ついでに言うなら、この統計はPCTの件数ですから、パリルートで出願しているものは反映されません。パリルートでの海外出願が多い会社は絶対にランキングに入らないことになります。
特許出願数なんて、金さえかければいくらでも数を増やすことができるわけですから、それが技術力のみを反映するものでないことは明らかだと思います(まあ、無関係とまでは言いませんが)。
パナソニックだって、別に首位を目指して首位になったわけでなく、必要なものだけを出願していたら、偶然首位になっただけ、ということでしょう。
今年トヨタがベスト10から消えたということだそうですが、「だからトヨタの技術力が低下した」という意味では全くないと思います。
素晴らしい技術についての1件の特許は、つまらない特許10000件よりも価値が高いものです。特許の価値は数ではありません。
でも、新聞ではすぐに件数に関する報道になってしまいます。
でも、新聞ではすぐに件数に関する報道になってしまいます。
会社の知財行政では、
「特許出願数を増やすべきと誰かが言い始める
→件数は増やしたけど中身のない特許が増える
→コストが無駄、と誰かが言い始める
→出願を絞り込んで質の高いものだけを出願しようという誰かが言い始める
→出願件数が減少する
→特許出願数を増やすべきという主張を・・・(以下同じ)」
でサイクルが回りがち、と私は個人的に思っています。
「出願件数を増やそう」と言って、社内で増やすための運動をやることが間違っているとは言いません。そうすることで「技術が埋もれてしまう」ケースは減ります。しかし、件数だけを目標にした運動は長続きしないですし、会社にとってプラスにはなりにくくなります。発明者にかかる負荷も大きいですから、かえって研究開発が進まなくなる場合もあります。
「××という事業目標を達成するには、この分野での特許出願を増やすことが絶対に必要だ。だから、この分野に関してはたくさん出願しなければならない」
といった、明確なビジョンのなかで出願件数を増やすのであればいいのですが、
「何か知らないけど、特許出願件数が多いのは絶対的な善だから増やそう」
という考えで出願件数を増やしても、会社にとって良いことは何もないと思います。
投稿者 八木国際特許事務所 | 記事URL
2011年2月 9日 水曜日
弁理士の持つ技術知識
最近、ブログを休みがちの八木です。仕事が忙しくて、ブログを書く時間を取りにくい状態が続いています。
しかし、この先ずっとこういう感じだと、ウチと何の取引もない人でもブログの更新状況を見れば仕事の忙しさの度合いが分かる、ということになってしまうわけですね。それは如何なものか、という気がしますが、仕方ないですね。これぞ個人事業主らしさということで。
そんなことはさておき。
最近、今まであまり扱ったことのない技術分野の仕事が何件か続けてありました。それも最近忙しい理由の一つです。なにしろ知識が少ない分野の仕事であると、技術分野の勉強から始めないといけないので、「慣れた分野の出願」よりもずいぶん手間がかかってしまいます。
しかし、大変な反面、初めてお聞きする話に「なるほど」と感心することがよくあります。
感心して、仕事を進めるためにその件についてネットで調べてみると、その件に関する情報はいくらでもでてきて、
「ああ、このことは私が知らなかっただけで、業界の人にとっては当たり前のことなのか」
と思うわけです。
まあ、世の中に存在する技術はとてつもなく多いわけですから、その全てをカバーすることは不可能なので、誰でも知っていることと知らないことがあるのは当然です。
最近の技術というのは、本当に細分化しているので、研究者も自分の分野のことは知っているけれど、それ以外のことは知らない、という状況になっている場合が多いのではないかという気がします。
偉そうに言っていますが、私だって研究をやっている頃、ポリエステル樹脂のことはかなり細かいことまで知っていても、それ以外の樹脂のことは何も知らない、という感じでした。研究やっているとそんなものだ、と思います。
しかし、弁理士を長くやっていると、技術知識の広がり方が変わってきます。
色々な分野について知識がありますが、そのほとんどは浅い知識です。そして、本を読んだり、ネットで調べ物をするときにも、「浅い」知識を「たくさん」集めようとします。
その結果、今の私の頭の中にある技術知識というのは、「あっちゃこっちゃ」でまとまりのない雑多なものです。そういう意味では、研究をずっと続けてこられた方とは違った形の知識の広がりをしている、という気がします。
そういう知識の集め方が好きな人間だから、弁理士になったのかなと最近は思います。独立して益々その傾向は高まっている気がするので、これからも雑多な知識を集めていきたいと思っています。
なんか、取り留めのない話になってしまいました。最近のばたばたの中で考えた雑感でした。オチがないのも忙しいせい、ということで。
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2011年2月 7日 月曜日
独立して思うこと
事務所を開業して間もなく三年となります。
この三年間、順風満帆とは言えないまでも、色々な経験をさせていただくことができて、色々な機会を与えてくれた方には常に感謝しています。この場を借りてお礼申し上げます。
この間、大きな会社の仕事、中堅企業の仕事、歴史の浅い中小企業の仕事と色々なことをさせていただきました。
そして、そうやって色々な仕事ができる、ということが独立したということの一番良いところかもしれない、と最近思っています。
事務所開設前は規模の大きい事務所(私が辞めたときで所員90名くらいでした)で働いており、その前は大企業の特許部で働いていました。
ですから、独立前の仕事では、「与えられたなかで決まった仕事をすればそれでよい」という状況でした。
つまり、自分の責任範囲がある程度決まっていて、その範囲内のことさえできればよいわけです。(それはそれで大変ではあったのですが)
特許事務所時代は、特定のクライアント数社が担当ですから、その会社の技術を明細書が書ける程度に理解できれば、あとはある程度ルーチンで回していけるようになります。
それに、私が勤めていた特許事務所は、固定の顧客以外の仕事は引き受けないという方針でしたので、小さい会社との仕事は全くありませんでした。ですから、自分の担当に決まった数社の案件以外を扱うことはありません。
また、会社時代は完全なサラリーマンですから、「会社のやり方という枠」に自分を押し込めるということが重要です。それさえうまくできれば、それほど難しいことを命じられることはありませんでした(まあ、当時は若手の下っ端だった、ということもあるでしょうが。実際、当時は私の能力も今より低かったですし)。
今は、というと、仕事を選り好みしているような状況ではないだけに、その結果として、色々な仕事をさせていただく、という大変ありがたい結果となりました。
「自分にこれはできるかな?」と思うような仕事をしなければならない、ということもあるのですが、それこそが「色々な経験をする」ということの醍醐味とも言えます。結局そういう仕事のほうが勉強にもなるし、楽しいと思える仕事となっています。
こうやって、色々な仕事をさせて戴くことは本当にいいことだな、と思います。特定の会社の仕事ばかりやっていると、どうしても経験の幅は小さくなります。
小さい会社と仕事をしていると、大きな会社としか仕事をしていなかったときには気付いていなかったことに気付くことがあります。自分のなかで、新しい考え方ができるような気がするときがあります。
独立前は、
「独立しても同じように特許の仕事を続けるのだから、経営の仕事が入る以外は大して仕事内容に変化はないだろう」
と思っていましたが、案外そうでもなかった、という感じです。
だからといって「日々、楽しいことばかり」というわけではありませんが、それでも何とか「独立しなければ経験できなかったこと」をやりつつ、元気に仕事をしている、ということを感謝したい気持ちです。
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2011年2月 1日 火曜日
先生と呼ばれるほどの・・・
もちろん、正解は「馬鹿でなし」です。
私は弁理士なので、クライアントの方から「先生」と呼ばれてしまいます。そして、そう呼ばれるたびにこの言葉が頭の中に浮かんでしまうのでした。
長くそう呼ばれているうちにさすがに少しは慣れてきましたが、それでも「先生」と呼ばれることに違和感を覚えることは未だに多いです。特に、自分より年上の方に「先生」と呼ばれてしまうと、「いえいえ、そんな大したものではありません」と言いたくなってしまいます。
私もかつては企業知財で働いていたとき、弁理士の方に「先生」と呼びかけていた時期があるので、その「先生」に深い意味があるわけでないことくらい分かっているつもりなのですが……。
こういうところにこだわってしまうというのは、やはり私のなかでどこか
「弁理士が偉そうにしているのは、何かが間違っている」
という感覚があるのかもしれません。
資格を持っていて「先生」と呼ばれるのを「当然」と思ってしまうと、自分のなかにどこか「傲慢」な心が生まれないか、という危惧を感じているのかもしれません。
とはいえ、あまり「先生」と呼ばれることに抵抗するのも大人げないということも思います。
立派な「大人」となるには、「先生」と呼ばれることにむず痒く思いながらも、何も思っていませんという風に受け流すということなのかなぁ、とも思います。
「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」ということを書いてみると、結局、「馬鹿」と言われたくない、という「見栄」の感情が混ざっていて、それはそれで「青くさい」のかな、とも思います。
というわけで、いくらなんでもそろそろ「先生」と呼ばれることにも慣れて、でも傲慢になることもなく、そして裏で「馬鹿」と言われても別にいいや、という鷹揚な感じでいらればいいなぁと最近思うようになったのでした。
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