特許コラム
2010年10月27日 水曜日
文系の論理性
ここ2回、資生堂vsマンダムの訴訟について書いてきて、次が最後と言いつつ、思うように考えがまとまらないので、今回はちょっと別の話を。
この訴訟についての最終回は、考えがまとまったらできるだけ早く公開させて戴きます。
今回は文系の論理というのはやはり難しいですね、という話です。
前に幽霊はいるのか?という記事のなかで、理系の論理性と文系の論理性ということを書きましたが、やっぱり「文系の論理性」というのは難しいな、ということを感じます。
例として、(一時多かった)元従業員が発明を譲渡したことに対する対価を求める訴訟ケースが起こった場合を考えます。
例えば、原告として訴えた従業員が、発明完成時点で研究開発グループのリーダーだったとします。
被告になった会社としては、当然「対価を払わなくてもよい」という判決が欲しいわけです。でも、どうやって理屈を作るかが苦しいとなったときに、
「原告は発明の完成に寄与していない」
という主張をしたとします。
ここで、「原告は発明の完成に寄与していない」ということは「対価を払わなくてよい」という結論を導くための「前提」になります。
発明の完成に寄与していないのなら、対価を得る権利がないのは当然のことです。ここのところは論理的に正しい所です。
しかし、その「前提」になる「原告は発明の完成に寄与していない」ということは、正しいのかどうか、ということです。ここのところがきちんと主張できていないと、いくら、その後の論理が正しくても何の意味もありません。
世間の常識として
「『研究開発グループのリーダー』だった人が開発に一切寄与していないなんて、本当?」
という気持ちがどうしても発生するわけです。その前提のところで常識を覆すのはそう簡単ではありません。
会社側としては
「会社を辞めた上に訴訟まで起こしやがって、この裏切り者めが」
という感情があるから、「びた一文払いたくない」という気持ちになりがちです。
でもその感情のせいで、「前提」が世間の常識からずれた無理やりな論理だけを作っても、思ったような判決が得られなくなるおそれがあります。
それなら、最初から、
「原告も発明の完成には寄与していたけれど寄与率が低いから、対価を払ってもいいけどその額は少額にすべき」
という論理に持って行って、支払い額を安くするための議論に注力したほうが、会社としては得な場合もあるわけです。
そのあたりの判断をするということが「感情を抑えたクールな目」を持つことでもあります。
そういうことを書きつつも、世の中の全員が「論理的」に行動する社会なんて息苦しくて全然楽しくない世界だとは思います。
でも、法律に関することにぶつかったときには、こういう「論理的な行動」が得につながる、ということは覚えておいたほうがよいかもしれません。特に仕事で法律を扱う方の場合は。
前提がきちんとしていないせいで、それらしく見えるけれど意味のない理論については、パオロ・マッツァリーニ氏の諸作においても色々と論じられています。興味のある方は読んでみられてはどうでしょうか。
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2010年10月19日 火曜日
「おせっかい教育論」
「おせっかい教育論」(鷲田清一、内田樹、釈徹宗、平松邦夫著 140B)を読みました。
この本を読んで思ったのは、
「こういう本が売れればいいのにな」
ということでした。
この本を出版している140Bは、今、ホームページ(http://www.140b.jp/index.php)のトップを見ると、
「オモロいか、オモロくないか、それが最重要課題です」
とあるわけです。
本当にそうですよ。どんなことでも、「オモロい」かどうかは重要だと思います。少なくとも本を作る人とか、自分の考えを人に伝えたい、と思っている人にとって、いかに人を引き付けて「面白がらせるか」ということは重要なことでしょう。
それは小説等の「面白いかどうかが重要」と誰もが思っている本に限らず、硬派な内容のものであっても、「人に伝える」のであれば、「オモロい」かどうかはすべて、といってもいいような気がします。
しかし、現実には、そうはいかないです。わざと「面白くない」ようにすることで、高尚に見せているものは多いですし、「面白いものは下賤」という考えもあるように思います。伝えようとしている内容によっては、「面白くできない」というものも世の中に多数あるので、「面白くないものは値打ちがない」とは言えないのですが。
でも、「面白くないものが面白いものより偉い」というわけでは絶対にないでしょう。同じ内容なら面白いに越したことはないはずです。
そういうなかで、「教育論」という本質的にお堅いものについて「オモロい」ものを提供することは本当に難しいことだと思います。
私はこの140Bという会社の出版物を他に読んだわけではないのですが、とりあえずこの本については、「お堅いこと」についての「面白い本」だと思います。そういう意味で、「オモロい」本を出すんだという意気込みは、「多くの人に読まれる」という形で成功して欲しいな、と感じます。
この本のもとになったのは、2009年10月1日に中央公会堂で行われた「ナカノシマ大学キックオフ記念セミナー」なのですが、私、このセミナーを受講していました。
このセミナー自体、非常に面白いものでした。まあ、面白いセミナーだったからこそ、本にしても面白いわけですが。
もう1年も前のことになるのですが、こうやって本を読んでいるとあの時の雰囲気やお話を聞いていたときの興奮のようなものが改めて蘇るような気がしました。「あーそうそう、そういえばそんな話が……」なんてことを思いながら読んでいました。
この本は主に「教育」ということについて書かれている本です。4名中3名は大学の先生ですから、「教育」については実際に現場で仕事をされている方です。そして、平松氏は大阪市長ですから、その仕事は教育と密接な関係があります。
私自身は教育にかかわる仕事をしているわけではありません。しかし、帯の内田樹氏の
「・・・(前略)自己利益を達成するために人は教育を受けるのだという思想が広まってしまった。それが教育崩壊の根本にあるのだと思います」
という言葉は考えさせられるものがありました(その詳細は是非、本書を読んでご確認下さい)。
結局、教育について考えるということは社会を考えるということだし、社会を考える上で教育は重要な手掛かりになるように思います。
知財についても、
「特許事務所の経営は、「金儲け」という自己利益の達成を最終的な目的にすることが正しい」
という前提が存在することに、この本を通じて気付かされます。
しかし、それについて「本当にそんな考えでいいのか」とずっと思っていた私にとって、「共同体の維持」に基づいて教育を論じるという本書の考え方はとても新鮮でしたし、自分の仕事への考え方につながることであったように思います。
このことは、単に教育にとどまらず、世の中の色々な職場で働く人が考えるべきことなのではないか、とも思いました。
「自己利益の達成」よりも「オモロい」かどうかを重視して仕事をしよう、ということは私もずっと考えていました。
現実には、それは簡単なことでないです。でも、そういう理念をなくしては、仕事がつまらなくなるだけなので、理想論と言われようとも、この気持ちを残していたいなと思います。
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2010年10月19日 火曜日
長尾山古墳
10月16日に行われた宝塚市の長尾山古墳発掘の現地説明会に行きました。
私は別に考古学マニアというわけではなく、こういう現地説明会に行ったのも初めてです。が、以前から「現地説明会」という響きに微妙な憧れを持っていました。
遺跡発掘で何かが見つかったときは、その新聞記事には大抵、「×月×日に現地説明会が」というようなことが書いていますよね。この現地説明会という場所で何をやっているんだろう、ということにいつも興味を持っていました。
しかし、近い場所で現地説明会が行われる機会がなく、休みの日に遠くまでわざわざ出かけるほどの考古学ファンでもないので、行ったことありませんでした。
ところが、今回は自宅から45分くらいで着くような場所です。ということで、ちょっと行ってみるか、と現地説明会初参加となったのでした。
場所は、阪急宝塚線山本駅から歩いて約15分。かなりの坂と階段を上った先です。新興住宅街によくある、小高い山を利用した公園の片隅に古墳はあります。
それだけ登っただけあって公園からの眺めはよく、大阪市内までよく見えます。権力者が墓を築く場所としてはいい場所じゃないか、という感じです。
現地説明会が始まる10分ほど前に到着すると、さすが、新聞に掲載されただけあって、かなりの人が集まっています。年齢層は全体に高くて、二十歳代の人はほとんどいません。仕事を引退された世代の方が多いように思いました。
最初に挨拶があって、それから順番に発掘現場を見学という流れです。しかし、現場は狭くて一度に20人くらいしか入れないのに、集まった人の数が多いので現場見学まで1時間くらい待ちました。
が、秋晴れの好天であること、待っている間、発掘の担当者があれこれと説明や質疑応答をしてくれていたおかげで、退屈せずに1時間過ごすことができました。
そして、見学となったのですが。
いや、やはり、行ってみるもんですね、というのが正直な気持ちです。
ここで、見たものの具体的内容を書いたり、説明で聞いた話を書いたりしたとしても素人の私からすれば、新聞記事に書かれたことに追加するようなことがあるわけではありません。
しかし現実に見ると、数で「長さ6.7メートル」と言われるのとは違い、「でかい」ということが本当に実感できます。粘土で棺を覆った粘土槨が遺存状態よく発見された、ということが今回の重要な発見ということですが、目で見ると粘土の質感、保存状態のよさ等もはっきりわかります。なるほどこれは重要な発見なんだろうな、と納得できます。
しかも、内部は盗掘されていないことから、副葬品が見つかる可能性がある、と分かっていながら開くことはできない、という。
なんでも、今の考古学では開くと劣化してしまうようなものを開くことはしないというようなお話でした。それに粘土槨が完全に残っているだけに、それを崩してしまうことは文化財の破壊ということになるので、なかなか開けないという、勿体ないようなお話でした。
初めての「現地説明会」は、上でも書いたように「行ってみるもんだな」、というのが感想です。
新聞の記事で読めばそれで一応どんな発見があったのか、言葉では理解できます。しかし、現場で遺跡を見て、専門家のお話を聞くと、単に新聞で読んだものとは全く違う色々なことが感じられて、実感として理解できた気がします。
また機会があれば、他の現地説明会も行ってみたいと思いました。
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2010年10月18日 月曜日
勉強はどれくらい重要なのか?
勉強というのは、とても大切なことです。特に、知財という特殊な分野では知識を持っていることが重要になることもあります。
しかし、「よく勉強をする」ということは本当に立派なことなのでしょうか。
なぜ急にこんなことをブログに書こうと思ったかというと、少し調べごとがあってネット上の弁理士さんのブログを沢山読んだりするなかで、これは如何なものか、と思うようなものを幾つか読んだこと、特許庁から弁理士宛に届いた弁理士の育成のあり方に関するアンケートに答えていて、ちょっと……と思ったからです。
学校での勉強や試験勉強としての勉強というのは、「正解がある世界」で知識を増やしていくこと、と私は思っています。学校での勉強なんてそんなものだし、弁理士試験の勉強というのも「正解がある論文で点数をとる」ための作業です。
でも、弁理士として仕事において、「正解がある」ことは絶対にありません。
特許性のある発明というのは、「人類の歴史上、初めて完成されたもの」です。ですから、それを文章に書き表す作業もまた、「世の中で初めてやること」です。そんなことに「正解」があるわけがありません。発明の把握にしても、Aという観点から把握する場合とBという観点から把握する場合とで、同じ技術が全然違った把握になることも多々あります。
それは、どっちが正解と言えるようなものではありません。
そんななかで仕事をするとき、Aという把握をするのかBという把握をするのか、どっちかを選ばなければ「ならない」のです。そういう「正解がない」なかでの選択を日常的に行う仕事において、「正解を探す」というクセが身に染みつき過ぎることは、決して良いことではないと思います。
正解のないことについて決定をするとき、自分の経験と勘を信じて決めるしかありません。後になって権利化や侵害事件になった局面で、その決断が誤りだった、と責められる場合もあるでしょう。
しかし、それでも、何かを選ばなければならないのです。後で責められる可能性から逃げてはいけないのです。
正直に申し上げて、弁理士のなかにもそういう「決断」から逃げて、高みから批評家のように人の仕事を批判したり、難しい理論を語ったりする人がいます。個別の案件ごとの背景を無視して、背景の異なる審査基準や判決にあてはめて、形式的な処理をしようとする人もいます。
そういう人は沢山の勉強をしているのかもしれません。けれども、そういう人が「実務家として一流の弁理士」になることは絶対にない、と思います。(大学の先生等をされているのであれば、「理論家として一流」になれるかもしれませんが)。
経験と勘というのは、沢山の難しい決断を繰り返すことでしか身につきません。そうである以上、「勉強をすれば一流になれる」という考えは非常に危険だと私は思いますし、「教育」とか「研修」で教えられる程度のことなんて重要なことではない、とも思います。
断っておきますが、「だから弁理士は勉強なんてしなくてよい」と言いたいわけではありません。弁理士は常に勉強していることが必要とされる仕事です。
しかし、「勉強をすれば、それだけで一流の弁理士になれる」とか「沢山の勉強をしたことで経験と勘も身についている」と思っている人がいるとしたら、それは大きな誤りだと言いたいというだけのことです。
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2010年10月15日 金曜日
法律の限界
特許の仕事をやっていて思うことの一つ、というか「法律の限界」を感じるのは、
「世の中の人は、いつも論理的に動いて自分に最大限の利益が来るよう合理的に行動しているわけではない」
という点です。
法律では、こういうことは無視されているように思えます。「人」というのは「何でそんなことするの?」というような突拍子もないことを、しょっちゅうしでかす生き物です。
小学生などは学校の先生や親に
「なんでそんなことをしたの?」
と聞かれることがありますが、その八割がたは答えられないことだったりします。だって、自分でも「なんでそんなことをした」のかさっぱり分からないわけですから。
新聞なんかを見ていても、「なんでそんなことをしたんだ?」と言いたくなる事件は山のように載っています。
でも、法律の世界では「人間は常に論理的に行動している」という前提に則って色々な規定があるので、「なんでそんなことをしたの?」という問いに「自分でも分からない」では済まされません。
「なんでそんなことをしたの?」
という問いに答えようがなく黙っていたら、相手方が強引に
「ってことは、こういう考えがあったんでしょ?」
ということを言ってきて、勝手にこっちの考えを作り上げられしまい、気がついたら悪者にされている、というのが法律の世界です。
別に深い考えなく明細書に書いた一言、意見書で主張した一文についても「なんとなく」書いたとは見てくれないわけです。必ず「論理的な意図」があって書いた文章だ、と解するのです。
これはしんどいことです。
明細書やら意見書という特許の書類を書くときには、後で変なことを言われないようにするためには、「論理的な意図」なく書いた文章は一文もないという状態にしなければなりません。そんなことは人間には不可能なことです。
こういうことのせいで、特許がちょっと「バクチ性」を帯びたものになってしまっているのも事実、という気がします。
しかし、こういう弊害を自覚しつつ、ギリギリまで文章を詰めて「バクチ」における勝ちの割合を少しでも高くするため、特許人たちは日々頑張っているわけです。
こういうことを書きましたが、私は「法律」っていうのがこういう風な欠点を持ってしまうのは、ある程度仕方ないこと、と思っているのであって、別に現在の法律制度というものを批判する意図はありませんので、念のため。
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