特許コラム
2011年6月 7日 火曜日
「日本の曖昧力」
「日本の曖昧力」(呉善花著 PHP新書 2009年初版発行)を読みました。
著者は韓国出身で現在は日本に帰化されており、拓殖大学教授をされている方です。また、多くの本を執筆されており、その多くが文庫化もされているので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
私は呉氏の本はこれまでに何冊か読んでいます。
氏の最初の本である「スカートの風」(三交社 1990年)を出版直後くらいに読んだとき、非常に面白いと思って何度も読み返したことを今でもよく覚えています。その後も多くの著書を書かれていますが、その多くが日本文化論に関するものであるように思います。
欧米人が語る「日本文化論」というのは、欧米人からみて日本の奇異に見えるところを指摘するだけで終わり、「外部から日本の文化的本質に迫る」といったものにまで至らないことが多いように思います(全てがそうだとは言いませんが)。
でも、呉氏は韓国出身ですから、欧米人とは全く違った観点から日本文化というものを解きほぐしています。日本と韓国では文化的に似た部分も多いですから、それだけに「ちょっとした違い」が気になる、という面もあるのでしょうね。でも、そのように比較的日本に近い文化的バックボーンを持つ人が、政治的イデオロギーを排除した冷静な観点で日本文化を論じた本は他にあまりないように思います。
まあ、著者が日本文化のことをあまりにも褒めるので面映いところもあるのですが、それでも「なるほど」と納得させられる部分は非常に多いです。
で、この本について一番「なるほど」と思ったのは、第九回の「日本語はなぜ「受け身」を多用するのか」という部分です。
「泥棒に入られた」という表現は、日本語以外ではあまり一般的な表現ではない、というところから議論が始まります。ほとんどの言語では「泥棒が入った」と言って、受け身にはしない、ということです。確かに冷静に考えると、別に受け身にして表す必要のない言葉です。
そして、更に、助動詞「~れる/~られる」の四つの意味(受け身、尊敬、自発、可能)について、
「すべて「自発」の意味から派生して生まれていったとされます。「自発」とは無意識にしてしまうこと、いい換えれば、自分を超えた存在や力によって自然に起こることを表す意味の時に使います。(中略)では、その超越的な力を及ぼすものとは何なのでしょうか。神さまといってもいいですが、日本の神さまというのは自然の神々、実質的には自然ですね」
とあります。
このあたり、日本人である私たちは無意識に使っている言葉なので、言われなければなかなか改めて考えないことです。そしてそういった表現にまで「日本的宗教観」が含まれているという指摘には納得してしまいました。
こうやって日本語の隅々にまで「日本的発想」が含まれた日本語を、「欧米的発想」に基づいて構成された現在の法律に適用させることについては、色々と困難があって当然、とも思いました。私たち、法律の世界で生きている人間はこういったところも考えながら仕事をしなければならないのかもしれません。
投稿者 八木国際特許事務所