特許コラム
2010年7月29日 木曜日
人に訴える議論
先日ご紹介した、「論理病をなおす」(香西秀信著 ちくま新書)という本を読んでいて思ったことのネタです。
この本のなかに「論より人が気に喰わない――人に訴える議論」という章があります。ここでは、「人に訴える議論がなにか」ということを説明するよりも、本のなかで挙げられた例を示すほうが話が早いと思います
この本で挙げられている例の一つは、以下のようなものです。
「教育学者のAが『ゆとり教育論』という本を書き、受験学力に毒されない、実社会で生きて働く「確かな学力」を習得する必要を熱っぽく論じた。この本は評判になり、Aは各地の教育団体から招待され、講演旅行に忙しく飛び回っていた。がAと専門を同じくする教育学者で、Aの同僚であるBは、その様子を苦々しそうに眺めてこう切り捨てた。
「Aはゆとり教育の勧めなんて綺麗事を言っているが、自分の子どもは二人とも私立の中高一貫の進学校に入れている。しかも、地元にある学校では満足できず、わざわざ東京で下宿させて通わせているのだ。他人の子どもはゆとり教育で阿呆にして、自分の子どもだけは一流大学に進学させるつもりなのだ。みんな、騙されるな!」(「論理病をなおす」香西秀信著 ちくま新書 135頁)
いかにもありがちな話です。
すなわち、「何を言っているか」ではなくて「どのような人間が言っているか」という点から、この議論の内容に反論するということです。
上の例であれば、誰が言ったかに関係なく「ゆとり教育」の是非の論理さえ正しければそれでいいじゃないか、という考え方もあるわけです。
しかし、話者が自分の主張する論と矛盾した行動を取っていると、急に説得力がなくなってしまう、というのは自然な考えでしょう。
ここについての具体的な議論は香西氏が詳細に行っており、非常に面白いものでした。
興味のある方は、是非お読み戴くといいと思います。
そこの議論のなかで、香西氏の議論に非常に共感したのは、
「私は、人は論とは必ずしも切り離せないと思っている」
との一言です。
理屈の上では「理論が正しければ、語っている人の人格は無関係」という考えもあるでしょう。しかし、現実の世の中ではそんなことは絶対にありません。
特許の仕事においても、それは言えるところがあります。特許の世界は理屈がすべてではあります。
しかし、その「理屈」のなかには香西氏がいう「人に訴える理論」も含まれている、と私は思っています。
訴訟の判決等をみると理路整然と書かれていて、そういった「人に訴える議論」の入ってくる余地はないように思われるかもしれません。
しかし、特に訴訟などでは、裁判所に出向いて原告被告が議論をするわけですから、そういった過程で出てくる諸々の主張・矛盾等が結論に与える影響は無視できないものがあると思います。
実際、「包袋禁反言」であったり、米国特許制度のIDS等はこういう「人に訴える理論」に関するものなのかな、と思ったりもします。
もっと具体的な例を挙げて説明できればいいのですが、特許というのは秘密に関わる部分があるだけに、こんな漠然とした話でもどかしいです。
しかし、特許の仕事の色々な局面でも「人に訴える議論」が発生している、と思っておくのは重要ではないかなぁと思っています。
投稿者 八木国際特許事務所